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宇津木言行「隠者の姿勢──西行「たはぶれ歌」論──」(『文学』隔月刊6-4,2005)/2005年8月3日14時1分読了 関連論考のほとんどが未読なので、責任のある論評にはならない。 『聞書集』所掲の「たはぶれ歌」13首をそっくりそのまま西行自身によってまとめられた一個の連作と見做し、それを統一的に理解するための一つの案を提出したもの。 久保田淳氏の読み方に大筋で即しながら、さらにそれを発展させている。 西行が隠者的歌人たちと設けた歌会での作とする想定は動かない。 詠作にあたって西行がおのれを別人に擬する虚構の姿勢を持っていたことを結論的な主張とする。 これは新しいか。 文学一般でも、和歌でも、そのような虚構を推定することは常識なのではないか。 特に和歌の場合は、題詠の伝統の中で、そのような姿勢は、創作の場についても、理解と享受の場についても、ごく普通のものとして考えられてきてはいないか。 西行歌を「生活実感に即した心情のおのずからなる発露」と見ることと、そのような虚構の存在推定とは両立する。 もっとも、宇津木氏が前提にしなければならなかった先行説の限りではそのような考察の態度が全く存在していないことは確かのようだから、宇津木氏にとって、おのれの「たはぶれ歌」詠作時期の論定をその内容理解の中で生かすためには、西行の作品が示す心情とかれの生活実態とを直結する従来の研究手法を厳しく斥けることがどうしても必要だったことは認められるし、それがこのような表現をとることもわからないではない。 しかしわが国今日の文学研究の水準の中で、西行歌の迫真性が西行の実体験の直接の表出の結果としてだけ捉えられているとは信じがたい気がする。 それは何れにせよ、この問題は一連の「たはぶれ歌」をはるかに超えて西行の全作品を通じての虚構の現れ方として論じられなければならないもののようである。そのような見地からの考察を加えることで宇津木氏のここでの主張は確実なものとなるだろう。 「隠れ遊び」の歌(一六八)から「人に見つけられる期待を心に秘めた隠者の像」を読み取っていること:「子供時代への回帰願望」があることは確かだが、西行が自覚的にそこに「人なつかしさの感情」をこめたとまでは言い切れないのではないか──この昼臥しが隠れん坊の遊びになるような子供時代に帰りたいものだ──。 (龍福 義友) |
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