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富士川合戦での戦術的思考の対立 ──平維盛と藤原忠清── (未定稿 下) 【本稿に手を入れて現時点での定稿とし、「戦闘行動の論理と中世的思考──富士川合戦での戦術対立から──」と改題して別項http://ronfoo.at.webry.info/200612/article_2.htmlとして掲出しました。今後はそちらを御覧ください。】 7 このように見てくると、社会秩序の流動化に伴う治安情勢の全国的な不安定化を背景として東国に発生し、異様な拡大の気配で貴族社会を不安に陥れた頼朝らの蜂起に対して、旧体制を護るために朝廷が派遣した追討軍が、その内部に当初から戦術をめぐる思考方法での深刻な対立を抱え込んでいたことがわかります。 このときこの反乱の中心的な指導者として朝廷に軍事的な対決を挑んだ頼朝が、その思考方法でもそれまでの貴族政治の当事者たちのそれと根本的に異質なものを持っていて、結果としてその面でも伝統社会を克服する歴史的な役割を果すことになったことは、すでに知られています(注1)。その頼朝の事業を正面から否定するものであるはずの追討軍がその内部で戦術的思考をめぐって割れていたとすれば、否定者がその内部にみずからを否定するものを含むという、大きな歴史的逆説がそこに見られるのかもしれません。戦術的思考もまた日常の生活での思考の一環としてなされるものである以上、それはそれをおこなう戦闘集団の母胎となる社会(階層)の持つ思考方法に規定されるのであり、戦術についての対立もまずはその枠内で起るのですが、対立が深刻化すると、そこに母胎社会の思考方法の否定が含まれるにいたる場合があるからです。その観点から、これまでに見てきた事実にさらに吟味を加えてみましょう。 追討軍のなかにあった戦術上の対立を体現していた維盛と忠清のうち、捉えやすいのは忠清の方です。かれの思考態度はすでに述べたように、普遍的な理解可能性と即物的な合目的性を目指す論理的で理性的なものであったのですが、それが与えられた条件の下では達成が著しく困難だと予想される任務の遂行に向けてとられているのがここでの特徴です。一般的に言ってそのような情況では、困難をもたらしている所与の条件を受容し合目的性を放棄するか否かが主体の直面する最初の課題となりますが、当然のことながら忠清はそれに不受容で応えて、事態に捉われずに合目的性を目指すみずからの思考態度を明示します。先に考えたところによれば、その、条件の不受容の最初のあらわれが追討軍を進発直後に京都で足止めすることだったのですから、その態度が任務遂行の最初期から徹底した一貫性をもってとられたことがわかります。所与の現実情況に抵抗しこれを変えることで行動の合目的性を確保しようとしているので、同様の情況はその後宗盛への作戦変更の進言に当っても、また撤退の実行に当っても、繰り返しあらわれています。所与の現実を受容し、目的への整合性によってではなく先例の指示するところに従って行動を決定しようとする貴族社会伝統の先例主義とは正面から対立する思考方法に基づく態度決定である(注2)ことはあきらかであり、それが忠清によって倦むことなく一再ならず繰り返されていることになります。先の歴史的逆説は、確かにこのとき忠清の戦術的思考の中で成立していたのです。それはまずこのように伝統的貴族社会の思考方法を否定するものとなったことによってそうなのですが、それだけではなく、追討の対象である頼朝がこのあとその事業の中で示す思考方法をここで忠清が先取りしていることによって、いっそう徹底した意味でそうなのです。頼朝がかれの言う「天下之草創」に当って実現を目指すおのれの国家構想とそれを支える者の人間像とに明瞭な自覚を持ち、それと現実との距離を正確に意識しつつ、現実に妥協せずその距離を克服しようとして合目的的な思考を貫いたことは、このあと奥州征伐にいたるかれの政治行動がよく示しています (注3)。 上に見たところは忠清の思考の合目的性であり、それが情況の著しい困難のなかでその現実に抗って非妥協的に貫かれようとするということで、そこに維盛との大きな違いがあったのでしたが、もう一つの重要な対立点として、忠清にあって維盛にはない、おのれの思考の結果を積極的に他者に伝えその理解を得ようとする態度を挙げることができます。論理の普遍性を信じそれに積極的に依拠しようとするもので客観的理解可能性の規範視などとよぶこともでき、一般論としては、人格の統合を求め普遍的・抽象的基準によることがらの一元的把握に向おうとする、思考方法の転回(注4)の一面として理解することができますから、確かにこれも伝統的貴族社会の思考に欠けていた側面ですが、とくに頼朝がそれに意識的に努めていて他者にもそれを求める姿勢を持ってい、かれのいわゆる廟堂粛清に際して当時の朝廷にその欠落を前提とするはたらきかけをしてもいる (注5)ことで、それが具体的に裏づけられます。またそのことによって、ここでも忠清の思考の頼朝との著しい近似があきらかになります。先の歴史的逆説の成立はここでも完全な形で確認されるのです。 忠清の思考での歴史的逆説の成立に関連しては、撤退の実行に当ってかれが維盛に対しておこなった説得のしかたを「立次第之理」ててと表現した兼実の理解(注6)にも注意する必要があります。すでに引用したものですが、文脈を捉えるのに必要な関連部分をあらためて掲げます。 又伝聞。……同十八日、富士川辺構仮屋。明暁[十九日。]可寄攻之支度也。而之間、計官軍勢之処、彼是相并四千余騎。作手定・陣議定已了、各休息之間、官兵之方数百騎、忽以降落、向敵軍城了。無力于拘留。所残之勢、僅不及一・二千騎。武田方四万余云々。依不可及敵対、竊以引退。是則忠清之謀略也。於維盛者、敢無可引退之心云々。而忠清立次第之理、再三教訓。士卒之輩、多以同之。仍不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損。適所残之輩、過半逐電。凡事之次第非直也事云々。……大略以伝説記之。……(玉葉治承四年十一月五日条) 兼実が朝廷首脳の一角を占める貴族社会最上層の一員でありながら、この時期の思考方法の転回では頼朝とならんでそれをもっとも尖鋭に体現する存在であったことはあらためて言うまでもないでしょう。その兼実にとっておのれの考え方による思考結果の正当性を表現する最も重要な語彙となっていたのが「理」でした(注7)。したがって「立次第之理」てるとは、「順序に従って(問題になっていることがらの)正当である理由を(兼実の考え方に即して納得できるようなものとして)示し」という意味をもつことになるのであり、単に正当であることを説明するというにとどまらず、その正当性が兼実自身の考え方から見て正しいと納得できるものであるという含意を強くもつのです。上に掲げた記述の限りでも、敵味方の兵力の実態と推移の傾向とを確実に踏まえた、理性的で且つ論理的な推論によって冷静に下された将来の予測があったことがはっきり読み取れますし、それだけでなく、山槐記や吉記を照合すると、さらに、忠清が積極的な情報蒐集によって判断を客観的で正確なものにしようとし、また、おのれの態度決定の根拠に理性的・論理的なことばによる説明を与えて他者の理解を求めようとしていたことがわかり、それらもまた兼実に知られて忠清理解の要素となっていたと考えられるのですが、その何れもが兼実の思考方法の特徴(注8)と重なります。忠清の維盛への説得に対する先の表現「立次第之理」がここから導かれたものであることは疑えないでしょう。つまり兼実はこの表現をとったことで忠清の思考方法がおのれと同質であることを(おそらくそれと意識しないで)承認したのです。忠清は忠清の母胎社会の伝統的思考を否定する頼朝と思考方法を同じくしていたために、おのれが頼朝の蜂起を鎮圧することによってその存在の否定者となろうとしていながら、思考ではその否定の対象者である頼朝とともにおのれの母胎社会を否定する者となるという逆説を身に引き受けることになったのでしたが、それが実はかれだけの問題だったのではなく、同じ時期に兼実もまた相似た逆説の中にいたことをそれは示しています。 忠清のおこなったことが歴史の逆説となっているということの意味するところが決して小さなものではないことをこの兼実の場合が示唆していますが、さらにそれを積極的に裏づける事実をほかならぬその兼実の記述が伝えています。忠清が「立次第之理」てて維盛を説得しようとしたと述べるのに続けて「士卒之輩、多以同之」ずとするのがそれです。忠清が次第の理を立てて説くところが、主将維盛の意思に反するものであったにもかかわらず、追討軍の将士の多数によって支持されたのであり、この事実は、忠清の考え方が頼朝や兼実のそれと傾向を同じくするというだけでなく、同僚や部下としてかれの身近にいる武士たちの多くとも共有することのできるものであったことを示すものです。歴史の逆説を生む事例は兼実の身辺でこそまれでしたが、実はそれは貴族社会の周縁的な部分に位置する武士層などではむしろ普通に見られるものであったことになります。 対立の他の一方である維盛について、あらためてつけ加えることはありません。ただ、追討命令実施の多くの局面で忠清と根本的な対立を見せていますから、その思考方法で忠清と異質であったことは明白ですが、だからと言ってそれは、その忠清が重要な部分で否定者であった貴族社会の思考に維盛の思考が同質的だったことをただちに意味するのではありませんでした。その維盛の思考は、前に述べたように、武士倫理としては清盛と同質の側面を持っていて、清盛一族の最上層の思考の一面を代表していると考えることができますが、この事例からその側面にこれ以上立ち入ることはできません。 8 治承四年、頼朝の蜂起に遭って朝廷が派遣した追討軍に内包されていた戦術上の対立から、それを生んだ思考方法のうちに、追討軍の母胎である貴族社会の思考方法を否定する新しい思考方法がはらまれていたことを見出すことができます。主体的に選択され普遍的に意味づけされた目的を果すために、既存の情況にそのまま従うことを拒みながら、すべてのひとに理解可能であるように言語化できる手続きで、理性的にまた論理的に、現実にはたらきかけてゆこうとするもので、まず指導的な実戦指揮者である侍大将忠清にあらわれ、ついでその主張が述べられるのを聞いた追討軍の将士の多数によって支持されます。思考方法としては、兼実や頼朝や、さらには後に泰時やが貴族社会の伝統的思考に対置して示す傾向としてすでに知られているものと同質のものであり、それは中世的思考として全社会を規定することになるものとその核心を共有すると考えられるものですが、それがこれまでに考えられたことのない、貴族社会によって編成派遣された軍団の戦闘行動のなかに、実際に戦闘に参加する武士の思考として、しかも個人のものであるとともに集団のものでもあるものとして、見出されています。このことは、この時期に社会を覆う規模で起りつつあった思考方法の転回を考えるうえに、新しい重要な知見を加えるものです。 新しい思考の担い手のうち、忠清とその周囲にいた将士は紛れもなく戦闘者ですし、頼朝も泰時も本来はやはり戦闘者ですから、それはおそらく、新しい思考方法の生れ出る場の性格には、戦闘行動の場の持つ性格に対する強い親近性がなければならないことを示唆するでしょう。試みにそのような場の全体に共通する属性のうち戦闘行動の場の特性から生れるものを挙げようとしてみると、すぐにつぎのような点が思い浮びます。 1)判断には、その判断の結果が自身の生死を分けるような重大な影響を持つ場合が多いこと。 2)したがってその判断には、いわば「生命を賭する」ような真剣さが要求されること。 3)そこでは、情況が刻々に変化し、それを把握するための情報蒐集が欠かせないこと。 4)そのようにして得られた現在までの情況についての知識から、その情況の将来での推移を予見することが必要ですが、そこでの推論自体には条件の特定の組み合わせを仮定すれば物理法則的な確定性のある規則の厳密な適用が可能であり必要でもありますから、実践に先立つ方針の構想に論理的思考力が駆使されるのは当然で、その能力が錬磨されもするだろうこと。 5)しかし、相手の出方は完全には予測できませんから、個々の判断の結果の予想も不確実さを免れず、相手の出方一つごとに判断を繰り返すことも避けがたいでしょう。そこから非合理的・超越的な要素が判断に加わることが生じるでしょうし、そのにはまた高度な修練によって身につく言語化しにくい内面的な一元的行動原理が生れはたらくことにもなると考えられること。 しかしながら、同じ思考の担い手の中に戦闘とは無縁な兼実がいることは、そこに戦闘行動の場以外の場も同時に含まれていなければならぬことを語るものです。それを可能にするものとして、つぎのようなことが考えられるでしょう。 6)転換期特有の社会秩序の流動化によって、日常生活にも戦闘に比肩できる緊迫した場面が多く見られるようになり、一般人の生活意識でも戦闘者的な要素が比率を高めていて、その結果、武士以外にも上記1)から5)までの属性を備える生活領域を持つ階層が生れたこと。 7)社会全体の日常生活と知的活動の水準が上昇し、思考力で生活行動を統制しその経験を他者に伝達できる階層と人間類型の範囲が拡大したこと。 そうだとすると、そのような思考が成立する場として適するのは、具体的に歴史事実に即して考えた場合、どのような階層のどのような領域の中であり、またどのような人間類型の中であったのか、臆測で述べてよければかなりのことが言えるでしょうが、それを学問的な論証性を失わずに詳論すること、これが残された、しかし果すことのたやすくない課題です。 注 1 この時期の歴史を大観する者にはごく自然に了解できることですが、そればかりでなく、個々の客観的に見ることのできる事例での頼朝の考え方のなかに具体的に捉えることのできるものでもあることを示すことができます。拙稿「政治手法の西と東 一・二──源頼朝「天下之草創」の書状精読 上・下──」(上掲紀要四・五号、二〇〇二・二〇〇三年。上掲『思考史のために』に再録)・上掲「政治手法の西と東 五」参照。 2 対立する二つの思考方法の概括的叙述としては、拙稿「転換期の貴族意識」(『岩波講座日本通史』7巻中世1、岩波書店、一九九三年)二七四〜二七五ページ・二九二〜二九三ページ、上掲拙著二一二〜二一三ページ・三〇二〜三〇三ページ参照。 3 上掲拙稿「政治手法の西と東 一・二」・拙稿「源頼朝「大天狗」書状小考」(『日本歴史』六九一号、二〇〇五年)参照。 4 注2に同じ。 5 文治二年四月三十日付議奏公卿宛頼朝書状。上掲拙稿「政治手法の西と東 二」八章一〇ページ・十章冒頭一六ページ、拙稿「政治手法の西と東 四──源頼朝の「天下之草創」と藤原兼実 玉葉文治元年十二月二十七日条精読 下──」(上掲紀要七号、二〇〇五年。上掲『思考史のために』に再録)九章一六ページ参照。 6 日記上の戦闘関連の記述はそのほとんどが伝聞の紹介で、この玉葉の記事も例外ではありません。この部分が「又伝聞」で始まり、「大略以伝説記之、……」と結ばれていることで明白です。ただ、発言や文章など言語表現の内容を伝えるものには特別な配慮が必要になることがありますが、それを除いた一般の情況の描写などに関しては、表現する語彙などは、記録者の自由な選択にゆだねられていたと考えてよい場合がほとんどで、ここでもそうでないとする理由は見当りませんから、「立次第之理」の「理」も兼実の用語法にしたがって用いられていると考えられます。 7 上掲拙稿「転換期の貴族意識」、上掲拙著第四章、拙稿「政治手法の西と東 三──源頼朝「天下之草創」と藤原兼実 玉葉文治元年十二月二十七日条精読 上──」(上掲紀要六号、二〇〇四年。上掲『思考史のために』に再録)、上掲拙稿「政治手法の西と東 四」参照。 8 上掲拙稿「政治手法の西と東 四」九章後半一五〜一六ページ参照。そこでは、兼実の、周囲に対して独自であり、頼朝と共有できた思考の特質を、「論理的精密性」・「理性的な明晰さ」に求め、さらにそこに「かれが思考するに当って常に誰もがその理性によって納得できるような客観的な妥当性を求めようとしている、意図的な態度」・「他者の理解の可能性に対する徹底した配慮が示されている」「その話の進め方」を見ています。 (2006年8月19日稿) (龍福 義友) |
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