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help リーダーに追加 RSS 戦闘行動の論理と中世的思考──富士川合戦での戦術対立から──

<<   作成日時 : 2006/12/16 00:44   >>

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【定稿】
   戦闘行動の論理と中世的思考──富士川合戦での戦術対立から──
【別掲「富士川合戦での戦術的思考の対立(未定稿)」に手を入れて現時点での定稿とし、改題しました】
1 はしがき
 学生でも専門家でも、まだ若く、学問の世界にそれが未知の荒野であるという実感を日々痛切に持ち続けている人々は、そのことへの感受性が鈍り、真摯な探究心が衰えてしまった老いた研究者を、傍らにいるだけで初心に立ち返らせてくれます。古くに関心をかきたてられていながら、時間に追われて考えをまとめられなかったさまざまな問題について、ようやく閑暇を得て解決の道を探ろうとするときに、繰り返し思い知らされるのはそのことです。
 ここでしようとするのは、武士の生活意識の中にかれらが戦闘者であることによって養われる強靭な合理的精神があるはずだと考え、それが日本の中世的思考全体の特質の決定にも大きく関与しているだろうという、若い日に考えはじめ、最近になって多少目鼻のつきだした問題(注1)のうちでも、いまだに本格的に取り扱えるに至らない、形成期の一般武士の考え方の合理性を確実な史実に基づいて論証しようとする作業の、その発端にでもなろうかという事例報告ですが、この事例にそのような側面があることも、先年大学院の演習で報告者がまったく別の関心で取上げてくれたことで気づいたものです。どのような小さな史料をも見逃すまいとする初々しい素直な熱意が、本来の意図を超えて老人の薄れた関心を蘇らせたのです。

2 富士川合戦の資料的価値

 治承寿永の争乱の重要な軍事的局面のうちで、その具体的な様相を同時代の貴族たちが自分の筆で記述しているものは少いのですが、その中で対抗する両勢力の最初の本格的な対決であったいわゆる富士川の合戦は、現存する貴族日記のほとんど、玉葉・山槐記・吉記の何れもが、その戦いの現地での経緯をそれぞれにかなりまとまった分量で詳細に記録している異例のものです。
 富士川の合戦でこの異例の事態がなぜ発生したのかも興味ある問題ですが、そこにこの合戦に対して同時点の貴族社会の人々が持った特別に積極的な関心があらわれていることに注目するにとどめて、他はしばらく措くことにします。いずれにせよその結果として、通常だったら、後代の編纂叙述に成る吾妻鏡などの史書の記載か、物語的虚構を当然とする平家物語諸本などの軍記物の叙事か、いずれにせよ信頼性に大きな弱点をかかえる資料に拠る以外に復原の手立てのない戦場の事実に、この合戦の場合には、伝聞によるものだという限界はあるものの、その事実を伝えるものとして同時代の人々が獲得した情報をほぼそのまま利用することで近づくことができるという、希有の利点を現代のわれわれが享受することになりました。
 そうは言っても実際には依然として不分明な点が多く残りますが、高い確実度で知ることのできる事実の相対的な比率の高さは疑えず、その意味でこの合戦は当代の戦闘を理解する上での基準的な事例として、多面的に考察される必要があります。とくに、一般の外的・客観的な事実に較べてわずかな錯誤や修飾でも実態が失われる度合いが高く真相を捉えることの困難な、内面的・主観的な精神活動にかかわる事実を知ろうとする場合のこの合戦の資料的価値は、きわめて大きいと言えるでしょう。

 その意味で注目されるのは、吾妻鏡には見えず、平家物語では反映する事実の片鱗が描写されるにとどまる、この戦いに臨むに当って追討軍の内部にあった作戦と戦闘での心理上の軋轢あるいは対応に用いる論理をめぐる対立(注2)について、貴族日記が比較にならぬほど多面的・具体的に情報を伝えていることです。ここではその記述を吟味することによって、戦場での武士の思考を事実に基づいて特徴づけ、その歴史的性格を捉えることを試みます。

3 戦術的思考の対立の実在
 源頼朝の挙兵が公式に朝廷に報じられたのは治承四年九月のはじめだったようで、貴族日記にそれについての伝聞が現れるのは、玉葉では三日、山槐記では四日のことです(吉記はこの月を欠いています)。直ちに高倉上皇の御所で対策が議され、五日には平維盛等を追討使として派遣することが決定され、追討の宣旨が下されます。玉葉で藤原兼実が述べるように、平安中期の大乱として二百四十年を経てなお強烈な記憶の残る平将門の乱が想起される事態(治承四年九月三日条参照)でしたから、相応に重大視され、本格的な追討が即座に決定されることになったのでしょう。
 ただ、対応策の決定のこの迅速さに対して、追討の実行の著しい緩慢さが奇妙な対照を形づくります。この点に関する平家物語流布本の叙述(注3)は自己撞着の甚だしいもので、追討使の進発については事実に反する比較的順当な日程を掲げていながら、それにもかかわらず、富士川で対陣するに先だって両軍の兵力差を知った追討軍の侍大将藤原忠清(注4)が、「あな心憂や。大将軍(平維盛)の御心の延びさせ給たる程口惜かりける事はなし。今一日も先に討手を下させ給たらば、……伊豆・駿河の勢は皆随附べかりつる物を」と、味方の劣勢を追討の遅延をもたらした追討使平維盛の責任だとして嘆く場面を描いています。史実との関係はともかく、追討軍内部に作戦をめぐって主将維盛と実戦の指揮に当る侍大将忠清との間に方針の不一致があったことを、矛盾を敢えて犯しながら印象づけようとしていることになるでしょう。しかも流布本はそのすぐ前の場面でのかれの発言──そこで忠清は戦場へと急ごうとする維盛を自軍の兵力の増強を待てと押しとどめていて、前引のみずからの慨嘆と両立しない態度を示すのですが──でも両者の間に戦場に臨む姿勢に差があったことを示唆しています。この合戦を見る平家物語流布本作者(群)の視野に維盛と忠清との確執の存在が大きく写っていたことは疑えないのです。史上に実在した対立が物語に反映してこの露頭を生んだ可能性はきわめて大きく、実態を知りたいという欲求は高まります。しかし連続して述べられるこの二つの挿話では、対立での両者の位置関係は正反対であり、そこからは対立を生みだしたものが両者の内面にあったどのような要因であるのかをうかがう術はありません。
 幸いなことに、ちょうどこれに見合う事実にかかわる風聞が日記上にあらわれます。その伝えるところはこうです。

今暁東国追討使右少将維盛朝臣出六波羅家発云々。去廿二日出福原、廿三日着旧都、其後于今所逗留也。伝聞。上総守忠清於此都忌十死一生日。少将云。於今者途中儀、於旧都〔不脱カ〕可忌日次。忠清云。六波羅者先祖旧宅也。争不被忌者。如此間相論云々。(山槐記治承四年九月二十九日条。史料大成本。下同)

 追討の決定から追討使が新都福原を出る二十二日までの日数の多さがまず不審ですが、その日取りは追討宣下と同時に朝議として定められたものですので、当面検討を省きます。興味深いのは福原を計画通り出発した追討使が、旧都に入った後そこで六日を空費していることで、貴族たちは追討決定の直後に頼朝の石橋山での大敗の報が入ったときこそ、「然者大将軍等発向、若有後于事歟」(藤原光長の伝えた風聞。玉葉同九日条。九条本。国書刊行会本(略号コ)ヲ以テ校ス。下同)と楽観したものの、「伝聞。……其後上総国住人介八郎広常……等餘〔与〕力。其外隣国有勢之者等多以与力。還欲殺景親等了之由、去夜飛脚到来。事及大事云々」(同十一日条)、「伝聞。東国事追日其勢及数万。当時七八ヶ国掠領了云々」(同二十二日条)などの続報を得るにおよんで、追討使が福原を出るのに先立って事態が容易ならぬものであることを理解していたのであり、そのことは当然追討使にも伝わっていなければなりません。そのうえでの途上での滞留なのです。肝心のところに脱字を推定しなければなりませんが、追討使として旧都から出立するのに十死一生日を忌もうとしたのが忠清であり、維盛は、出立はすでに福原で果しているのであって、旧都は道程の途中に過ぎず、そこで日を忌むのは無意味だとしてそれに反対し、先を急ごうとしていたのであることに疑問の余地はないでしょう。忠清は、時を置けばそれが敵を利する一面を持つであろうことを承知のうえで、敢えて維盛の反対を押し切って、旧都からの出発を遷延させたのです。その理由を確言するのは簡単ではありませんが、この忠清に対して、維盛が追討命令の忠実な履行へと一途にはやっていることは認めてよいように思われます。史実のうえでの両者の位置関係は、先の平家物語での忠清のことばで言えば、追討使の進発時期について述べられたものの示すところとは逆で、戦闘の開始についてのものとほぼ等しいと言えるでしょう。矛盾を重ねながら平家物語流布本が読者に印象づけようとしたこの合戦での維盛と忠清の戦術的思考上の対立は、確かに実在したのです。

4 藤原忠清の思考その一
 追討使進発時期をめぐる維盛・忠清の間柄について平家物語流布本と照合できる日記の記載は山槐記のこの一節に見られるにとどまりますが、続く富士川の対陣での戦わずしての撤退については先に述べた通り玉葉・山槐記・吉記の各日記が筆をそろえて記述し、しかも前二者では平家物語ではふれるところのない維盛・忠清の間のそのことでの不協和を、相互に出入りを見せながらも一致して述べています。
 諸日記のうちでは、追討使進発時の内部軋轢を独自に指摘した山槐記が、ここでも、採る伝聞の内容が最も多面的です。合戦の時期が迫った時点で、

夜陰左少将時実朝臣来示曰。去朔日自駿河忠清示送前右大将[宗盛。]許云。頼朝党数万騎也。十一ヶ国已同志。官兵纔千騎也。不可敵対。暫去駿河国欲着遠江国府。可然之人々猶可被下向也。又以景清被任信濃守可為追討使歟。駿河目代為頼子〔朝カ〕被伐了。或曰。目代一人存命云々。但此事追討使維盛朝臣一切無音。只忠清許申之云々。 (山槐記治承四年十一月四日条)

と、出家した平清盛の圧倒的な影響力の下でながら次第に平氏の棟梁としての実質を備えはじめていた平宗盛のもとに忠清が情勢を報告し作戦変更を提案してきたと、他日記には見えない伝聞を記すのですが、そこでは単にその報告の事実が紹介されるだけではなく、維盛からはそのような中央への連絡が全くなかった点がことさらに指摘されています。そのことを山槐記の筆者藤原忠親がどう評価したのかは述べられていませんが、忠清に彼我の戦力の差の把握とそれに基づく戦況の予測がありそれを動機とする行動が見られるのに、維盛にはそうしたものがない(すくなくともそれがあることを示す事実がない)という事実認識が、忠親にあったことは確実です。
 したがって、追討使の帰京を受けて十一月六日条につぎのように記すときにも、忠清の戦闘者としての行動の特性を際立たせて捉えた忠親のその目ははたらいていたのだと見なければなりません。

或者云。追討使右少将維盛朝臣今暁入旧都六波羅。九〔去カ〕月十八日着駿河国。同十九日頼朝党営于不志河送使。不知其状。維盛朝臣問所為於忠景(忠清。下同)。忠景曰。兵法不斬使者。然而此条私合戦之時事也。今為追討使。可及返答哉。先問彼方子細可斬者。維盛朝臣従此言、令痛問。使者云。軍兵有数万、敢不可為敵対者。問此後斬首了。或難此事云々。官兵纔千余騎、更不可及合戦。兼又諸国兵仕〔士カ〕内心皆在頼朝。官兵互恐異心。暫逗留者欲囲塞後陣云々。忠景等聞此事無欲戦之心之間、宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷。官兵皆疑軍兵之寄来、夜中引退。上下競走、自焼宿之座〔屋カ〕形・中持・雑具等。忠度・知度不知此事、追退帰。忠景向伊勢国。京師維盛朝臣入京。着近州野路之時有五六十騎云々。此事或感之。兵法引退随事無難之故也。或又謗之。近日門々戸々虚言甚多。此事定少実歟。然而閭巷説随聞及粗注。(山槐記治承四年十一月六日条)

 ここには、敵方の軍使の斬首という、兵法の通念に反する行為をするに当って、忠清が批判は受けた(「或難此事云々」)(注5)にせよひとまずは合理性を認めることのできる理由を用意してひとを説得しようとしていたこと、その際にも確実な軍事情報の獲得のために軍使を利用することを忘れず情況判断に生かすという合目的的な態度を示していること、などの事実が描かれています。その結果として生じた撤退についても、世評には毀誉双方があったことが、積極的な支持の方を特記する形で述べられていて(「此事或感之。兵法引退随事無難之故也。或又謗之」)、かれの方針に人心の理解と受容を期待することのできる一面があったことをうかがわせます。忠清に、普遍的な理解可能性と即物的な合目的性を目指す、論理的で理性的な思考態度があったことになりますが、おそらくそのことは忠親の内面で維盛とはっきりした対比を形づくるものとして捉えられていたのでしょう。その意味でこの忠清の思考態度の認識には忠親の主観が色濃く反映している可能性があって、同じことが他の日記に現れる伝聞によっても導かれるか否かが重要になってきます。
 この山槐記十一月六日条の記載と、内容でほぼ照応するのが玉葉のつぎの部分です。

又伝聞。追討使等、今日及晩景入京。知度先入。僅廿余騎。維盛追入。又不過廿騎云々。先去月十六日、着駿河国高橋宿。……同十七日朝、自武田方以使者[相副消息。]送維盛館。其状云。年来雖有見参之志、于今未遂其思。幸為宣旨使有御下向。雖須参上、程遠[隔一日云々。]路峻、輒難参。又渡御可有煩。仍於浮島原、[甲斐与駿川之間広野云々。]相互行向、欲遂見参云々。忠清見之大怒、使者二人切頸了。同十八日、富士川辺構仮屋。明暁[十九日。]可寄攻之支度也。而之間、計官軍勢之処、彼是相并四千余騎。作手定・陣議定已了、各休息之間、官兵之方数百騎、忽以降落、向敵軍城了。無力于拘留。所残之勢、僅不及一・二〔一・二、底本ヽニ作ル。コニヨリテ改ム〕千騎。武田方四万余〔底本騎ニ作ル。コニヨリテ改ム〕云々。依不可及敵対、竊以引退。是則忠清之謀略也。於維盛者、敢無可引退之心云々。而忠清立次第之理、再三教訓。士卒之輩、多以同之。仍不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損。適所残之輩、過半逐電。凡事之次第非直也事云々。……大略以伝説記之。定有遺漏歟。但是供奉軍陣之輩説也。子細雖多、難及短毫者也。(玉葉治承四年十一月五日条)

 山槐記が処置を詳述していて忠清がそれに与えた理由づけで注目された軍使が、玉葉の記載でも大きな位置を占めていて、そこでは山槐記・吉記ともにその存在に言及するだけだった軍使のもたらした書状の内容が原文そのままの引用と思われる表現で紹介されています。しかし忠清の行動については、「忠清見之大怒、使者二人切頸了」と事実を述べるだけで一切解説を加えません。ただ、書状の文面が忠実に再現されていることで、その文面に託された軍事的意味、それが追討使に対して反乱軍側が自信に満ちた高飛車な侮蔑と揶揄を公式に加えて挑発することにあったことが如実に感得でき、忠清が追討使であるからには回答すべきではないとして使者を斬刑に処したことがこの挑発に対するかれの応答(挑発に乗らずそれを無視するという)であったことをほぼ確実に推測することができます。したがって忠清の軍使への対応はかれの与えた山槐記で知られる説明の前にもう一つさらに根底的な言外の理由を持っていたのであって、その全体が冷静で的確な理性的態度を示していることになると考えられます。「忠清見之大怒」という伝聞の表現は、その対応に感情的な側面を強く印象させる点でやや不正確だったのでしょう。
 続く撤退にいたる経緯についての記述は、あたかも追討軍の本営にあって全軍の状態を掌握できる立場にいた者の見聞であるかのような細部にわたる具体性と刻々に推移する情況を伝える迫真性とを持っています(注6)。玉葉の筆者兼実は一般的には忠親ほどには維盛・忠清の対比を意識しないのですが、追討使の撤退についての風聞を紹介するに当っては忠親以上にはっきりとそれを忠清単独の意思に帰し、維盛と判断が異なっていたことを記しています。山槐記・吉記ともに追討軍の戦意の喪失と退却に向う傾向の強まりを記しながらも撤退の開始そのものは偶発事(両者内容を異にしますが)をきっかけとする意図しない事態だったとするのに対し、玉葉がそうしたものを介在させずに忠清の意図の直接的な結果だとしていることも注意をひきます(注7)。なかでも注目する必要があるのは、維盛に退却の意思のない中で忠清がおのれの意図を実現するために、「次第之理」を立てて維盛を繰返し説得し、その説得に「士卒之輩」の多数が同調したとしていることで、これによって情況分析に基づいて既定の路線にとらわれず作戦を機敏に柔軟に変更しようとする忠清の(即物的・合目的的な)考え方が「理」のあるものとして組み立てることのできるものとして(すくなくとも兼実によってだけは)認められてい、かつ他者にその正当性が理解できるまでに忠清の内部で普遍化・論理化されていたこと、その結果としてかれの「理」を追討軍の将士の多くが支持したこと、がわかります。
 玉葉のこの記述によって、山槐記の伝える忠清の普遍的な理解可能性と即物的な合目的性を目指す、論理的で理性的な思考態度とそれをめぐる維盛との対照は、その客観性を裏づけられるとともに、一方では、かれのそのような思考様式が周囲の武士にも共有されていたことが知られ、また他方、それが兼実の「理」にも合致するものであることがあきらかになるのです。

5 藤原忠清の思考その二
 富士川合戦の現地での忠清の戦術的思考が論理的・理性的なものであったことは、以上の山槐記と玉葉との記述の吟味によって、ほぼ確証されたということができます。武田軍からの軍使の処置、軍事情勢の掌握とそれへの対処、撤退の実行のいずれについても同じ思考態度で臨んでいたことが認められるのです。
 そうなって先ず問題になるのは、そのかれが追討使の進発にあたって示した一見非合理的・因襲的な態度をどう理解するかです。かれはすでに述べたように、追討使の現地到着が遅れそれが敵を利するであろうことを承知のうえで、維盛の反対を押し切って、十死一生日を忌むためと言って、京都で六日間を空費するのです。戦況が軽視を許さないものであることはすでに周知のところでしたし、十死一生日の禁忌が抵抗できぬ呪縛となっていたのでないことも維盛の異論があることで確かでしょう(注8)。ここでの忠清に情況への誤った楽観や、因襲への盲信を帰属させることはできません。非合理的・因襲的な態度決定と見えたのは表面だけで、真の理由は他にあったのだと考えなければなりません。その理由は一体何だったのでしょうか。考えられるのはおそらくただ一つ、かれは追討宣旨に忠実に従って反乱軍との交戦へと直線的に進むことを回避したかったのであり、その手始めに十死一生日を口実に六日間の時を稼いだのです。
 忠清にはこのときから、この追討戦が当初の計画通りに実行された場合には手痛い敗北に終るだろうという見通しがあって、そこから追討方針を立て直すための条件整備のさまざまな試みが生れていたのでしょう。福原を出るまでに入った情報を見るだけで、そこに虚報が含まれている可能性を考えても、反乱側の兵力量での優位と、時を追って強まる勢力の拡大傾向とは紛うかたなく読み取れたのであり、その優勢な敵と敵の勢力圏で戦うことの不利はあきらかだったからです。追討側も進軍の途上で現地の武士勢力が味方につくことを期待していましたが、それも出発時点での初期条件の較差によって実現はほとんど不可能になったと見えたに違いありません(注9)。忠清は可能な限り時日を置くことによって、追討使の置かれている情況が客観的に明確になり、また彼我の兵力差が作戦変更を何人にも余儀ないものと認めさせるまでに開くことを狙ったのだと考えられます。まさに因襲的なものの対極となる、きわめて論理的で理性的なそして大胆な戦術的思考があったのです。
 このときの追討作戦に臨むに当って忠清が初発の段階ですでにこのような見通しと方針とを持っていたとすれば、このあと撤退にいたるかれの行動は、これまで以上に自然なものとして理解することができるでしょう。忠清の思考がこの合戦をめぐる一連の行動のすべてを通じて一貫して論理的・理性的なものであったことを知ることができたことになります。

6 平維盛の思考
 忠清の思考態度が、普遍的な理解可能性と即物的な合目的性を目指す論理的で理性的なものであったことを認めるとして、山槐記と玉葉とによってこれとはっきり対立する態度を示したことを伝えられている維盛の思考はどのように考えられるでしょうか。
 この合戦にかかわる日記の記述で、維盛の言動が忠清に関連づけられて現れる場面は山槐記に三箇所、玉葉に一箇所見ることができます。何れもすでに引用した史料にあらわれているものですが、その関係部分をあらためて掲げてみます。

伝聞。上総守忠清於此都忌十死一生日。少将(維盛)云。於今者途中儀、於旧都〔不脱カ〕可忌日次。忠清云。六波羅者先祖旧宅也。争不被忌者。如此間相論云々。(山槐記治承四年九月廿九日条)
夜陰左少将時実朝臣来示曰。去朔日自駿河忠清示送前右大将[宗盛。]許云。頼朝党数万騎也。十一ヶ国已同志。官兵纔千騎也。不可敵対。暫去駿河国欲着遠江国府。可然之人々猶可被下向也。又以景清被任信濃守可為追討使歟。駿河目代為頼子〔朝カ〕被伐了。或曰。目代一人存命云々。但此事追討使維盛朝臣一切無音。只忠清許申之云々。(山槐記治承四年十一月四日条)
所残之勢、僅不及一・二千騎。武田方四万余云々。依不可及敵対、竊以引退。是則忠清之謀略也。於維盛者、敢無可引退之心云々。而忠清立次第之理、再三教訓。士卒之輩、多以同之。仍不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損。適所残之輩、過半逐電。凡事之次第非直也事云々。(玉葉治承四年十一月五日条)
或者云。追討使右少将維盛朝臣今暁入旧都六波羅。九〔去カ〕月十八日着駿河国。同十九日頼朝党営于不志河送使。不知其状。維盛朝臣問所為於忠景(忠清)。忠景曰。兵法不斬使者。然而此条私合戦之時事也。今為追討使。可及返答哉。先問彼方子細可斬者。維盛朝臣従此言、令痛問。……問此後斬首了。(山槐記治承四年十一月六日条)

 全体として、維盛の主体性を積極的に示す行動は見られず、追討命令の受動的な履行からみずから踏み出すことのないのがかれの行動の特徴だということができます。十死一生日をめぐって忠清を批判するのも、撤退計画ではじめは忠清に同調しないのも、いずれも忠清が命令と一致しない行動に出たからですし、武田方の軍使の処置を忠清に相談するのは、それが命令だけでは方針の定められない問題だったからです。忠清が情報を蒐集して情況を把握し戦局の帰趨を予測して対応策を中央に進言しているのは、かれが実戦の指揮者として戦況の刻々の推移に対処することを当然の職務とし戦闘の勝敗に直接に責任を負う立場だったことに促された面もありますが、主将維盛にとってもこれらのことは命令を成功裡に遂行するためには欠くことのできない関心事であったはずであり、維盛の行動にそのような側面がまったく見られないのは、かれにとっての命令の履行には結果の成否に対する責任の意識さえ伴ってはいなかったことを示すものでしょう。それは徹底していて、麾下の軍勢が実際に壊滅する可能性に直面しても貫かれようとするものであることが、玉葉の伝える、対戦前夜の忠清の撤退提案に対してはじめかれが示す「於維盛者、敢無可引退之心」という態度によってわかります。外部から与えられる行動路線に無批判に忠実であり、それに従うことが自己目的化していて、達成度を左右する、現実情況に応じて路線を調整することには、いちじるしく関心が低いのです。忠清に見られる即物的な合目的性の追求は維盛にあっては放棄されていたものと見做すほかはありません。規範の外在性では平安中期貴族の政治手法に典型的に認められる先例主義に通じるのですが、事柄の個別的具体性に即する側面を欠いている点でそれとも異なります。
 このような行為様式がどのように正当化されていたのかは、維盛の内面を伝える資料が乏しいために直接に知ることはできませんが、それについては維盛等の敗走を知って示した清盛の反応が参考になります。

今日着勢多。先以使者[馬允満季。]示子細於禅門。々々大怒云。承追討使之日、奉命於君了。縦雖曝骸於敵軍、豈為恥哉。未聞承追討使之勇士徒赴帰路事。若入京洛、誰人可合眼哉。不覚之恥貽家、尾籠之名留世歟。早自路可暗跡也。更不可入京云々。然而竊入洛、寄宿検非違使忠綱之宅云々。於知度者、先以入洛、在禅門之八条家云々。(玉葉治承四年十一月五日条)

 「承追討使之日、奉命於君了。縦雖曝骸於敵軍、豈為恥哉。未聞承追討使之勇士徒赴帰路事」──、こう述べていることから、清盛から見てもこの時の維盛にとって必要であったのは命令の忠実な履行それ自体であって、結果の成否はむしろ問うところではなかったことがわかります。全体としては感情に駆られた暴言という側面もなくはありませんが、そうであればこそかえってここで述べられることは、当時の平氏の人々が日常的に抱いていた理念としての武士倫理を比較的素直に表現したものになっていると考えられます。この倫理のもとでは、無為であること、即ち命令の字句の表面的意味に盲従し結果を問わない姿勢をとることは、その担い手が戦場に臨んだときにすべてこの時の維盛と同じ状態に陥るか否かは別として、それ自体は命令の履行を自己の身命への顧慮の上位に置くものとして心情的には正当化されやすかったでしょう。維盛の行動を正当化し支えたものがこれであったことは確かだと考えられます。ただその正当性は、維盛によって言語化して説明されることがなかったようであり、またそれによって他者の理解を得る可能性にも欠けていたことが撤退をめぐる忠清との応酬によってあらわになってもいますから、普遍的な理解可能性を備えてはいなかったのです。

7 思考対立の意味
 このように見てくると、社会秩序の流動化に伴う治安情勢の全国的な不安定化を背景として東国に発生し、異様な拡大の気配で貴族社会を不安に陥れた頼朝らの蜂起に対して、旧体制を護るために朝廷が派遣した追討軍が、その内部に当初から戦術をめぐる思考方法で深刻な対立を抱え込んでいたことがわかります。
 このときこの反乱の中心的な指導者として朝廷に軍事的な対決を挑んだ頼朝が、その思考方法でもそれまでの貴族政治の当事者たちのそれと根本的に異質なものを持っていて、結果としてその面でも伝統社会を克服する歴史的な役割を果すことになったことは、すでに知られています(注10)。その頼朝の事業を正面から否定するものであるはずの追討軍がその内部で戦術的思考をめぐって割れていたとすれば、否定者がその内部にみずからを否定するものを含むという、大きな歴史的逆説がそこに見られるのかもしれません。戦術的思考もまた日常の生活での思考の一環としてなされるものである以上、それはそれをおこなう戦闘集団の母胎となる社会(階層)の持つ思考方法に規定されるのであり、戦術についての対立もまずはその枠内で起るのですが、対立が深刻化すると、そこに母胎社会の思考方法の否定が含まれるにいたる場合があるからです。その観点から、これまでに見てきた事実にさらに吟味を加えてみましょう。

 追討軍のなかにあった戦術上の対立を体現していた維盛と忠清のうち、捉えやすいのは忠清の方です。かれの思考態度はすでに述べたように、普遍的な理解可能性と即物的な合目的性を目指す論理的で理性的なものであったのですが、それが与えられた条件の下では達成が著しく困難だと予想される任務の遂行に向けてとられているのがここでの特徴です。一般的に言ってそのような情況では、困難をもたらしている所与の条件を受容し合目的性を放棄するか否かが主体の直面する最初の課題となりますが、当然のことながら忠清はそれに不受容で応えて、事態に捉われずに合目的性を目指すみずからの思考態度を明示します。先に考えたところによれば、その、条件の不受容の最初のあらわれが追討軍を進発直後に京都で足止めすることだったのですから、その態度が任務遂行の最初期から徹底した一貫性をもってとられたことがわかります。所与の現実情況に抵抗しこれを変えることで行動の合目的性を確保しようとしているので、同様の情況はその後宗盛への作戦変更の進言に当っても、また撤退の実行に当っても、繰り返しあらわれています。所与の現実を受容し、目的への整合性によってではなく先例の指示するところに従って行動を決定しようとする貴族社会伝統の先例主義とは正面から対立する思考方法に基づく態度決定である(注11)ことはあきらかであり、それが忠清によって倦むことなく一再ならず繰り返されていることになります。先の歴史的逆説は、確かにこのとき忠清の戦術的思考の中で成立していたのです。それはまずこのように伝統的貴族社会の思考方法を否定するものとなったことによってそうなのですが、それだけではなく、追討の対象である頼朝がこのあとその事業の中で示す思考方法をここで忠清が先取りしていることによって、いっそう徹底した意味でそうなのです。頼朝がかれの言う「天下之草創」に当って実現を目指すおのれの国家構想とそれを支える者の人間像とに明瞭な自覚を持ち、それと現実との距離を正確に意識しつつ、現実に妥協せずその距離を克服しようとして合目的的な思考を貫いたことは、このあと奥州征伐にいたるかれの政治行動がよく示しています(注12)。
 上に見たところは忠清の思考の合目的性であり、それが情況の著しい困難のなかでその現実に抗って非妥協的に貫かれようとするということで、そこに維盛との大きな違いがあったのでしたが、もう一つの重要な対立点として、忠清にあって維盛にはない、おのれの思考の結果を積極的に他者に伝えその理解を得ようとする態度を挙げることができます。論理の普遍性を信じそれに積極的に依拠しようとするもので客観的理解可能性の規範視などとよぶこともでき、一般論としては、人格の統合を求め普遍的・抽象的基準によることがらの一元的把握に向おうとする、思考方法の転回(注13)の一面として理解することができますから、確かにこれも伝統的貴族社会の思考に欠けていた側面ですが、とくに頼朝がそれに意識的に努めていて他者にもそれを求める姿勢を持ってい、かれのいわゆる廟堂粛清に際して当時の朝廷にその欠落を前提とするはたらきかけをしてもいる(注14)ことで、それが具体的に裏づけられます。またそのことによって、ここでも忠清の思考の頼朝との著しい近似があきらかになります。先の歴史的逆説の成立はここでも完全な形で確認されるのです。
 忠清の思考での歴史的逆説の成立に関連しては、撤退の実行に当ってかれが維盛に対しておこなった説得のしかたを「立次第之理」ててと表現した兼実の理解(注15)にも注意する必要があります。兼実が朝廷首脳の一角を占める貴族社会最上層の一員でありながら、この時期の思考方法の転回では頼朝とならんでそれをもっとも尖鋭に体現する存在であったことはあらためて言うまでもないでしょう。その兼実にとっておのれの考え方による思考結果の正当性を表現する最も重要な語彙となっていたのが「理」でした(注16)。したがって「立次第之理」てるとは、「順序に従って(問題になっていることがらの)正当である理由を(兼実の考え方に即して納得できるようなものとして)示す」という意味をもつことになるのであり、単に正当であることを説明するというにとどまらず、その正当性が兼実自身の考え方から見て正しいと納得できるものであるという含意を強くもつのです。上に掲げた記述の限りでも、敵味方の兵力の実態と推移の傾向とを確実に踏まえた、理性的で且つ論理的な推論によって冷静に下された将来の予測があったことがはっきり読み取れますし、それだけでなく、山槐記や吉記を照合する(注17)と、さらに、忠清が日頃から積極的な情報蒐集によって判断を客観的で正確なものにしようとし、また、おのれの態度決定の根拠に理性的・論理的なことばによる説明を与えて他者の理解を求めようとしていたことがわかり、それらもまた兼実に知られて忠清理解の要素となっていたと考えられるのですが、その何れもが兼実の思考方法の特徴(注18)と重なります。忠清の維盛への説得に対する先の表現「立次第之理」がここから導かれたものであることは疑えないでしょう。つまり兼実はこの表現をとったことで忠清の思考方法がおのれと同質であることを(おそらくそれと意識しないで)承認したのです。忠清は忠清の母胎社会の伝統的思考を否定する頼朝と思考方法を同じくしていたために、おのれが頼朝の蜂起を鎮圧することによってその存在の否定者となろうとしていながら、思考ではその否定の対象者である頼朝とともにおのれの母胎社会を否定する者となるという逆説を身に引き受けることになったのでしたが、それが実はかれだけの問題だったのではなく、同じ時期に兼実もまた相似た逆説の中にいたことをそれは示しています。
 忠清のおこなったことが歴史の逆説となっているということの意味するところが決して小さなものではないことをこの兼実の場合が示唆していますが、さらにそれを積極的に裏づける事実をほかならぬその兼実の記述が伝えています。忠清が「立次第之理」てて維盛を説得しようとしたと述べるのに続けて「士卒之輩、多以同之」ずとするのがそれです。忠清が次第の理を立てて説くところが、主将維盛の意思に反するものであったにもかかわらず、追討軍の将士の多数によって支持されたのであり、この事実は、忠清の考え方が頼朝や兼実のそれと傾向を同じくするというだけでなく、同僚や部下としてかれの身近にいる武士たちの多くとも共有することのできるものであったことを示すものです。歴史の逆説を生む事例は兼実の身辺でこそまれでしたが、実はそれは貴族社会の周縁的な部分に位置する武士層などではむしろ普通に見られるものであったことになります。

 対立の他の一方である維盛について、あらためてつけ加えることはありません。ただ、追討命令実施の多くの局面で忠清と根本的な対立を見せていますから、その思考方法で忠清と異質であったことは明白ですが、だからと言ってそれは、その忠清が重要な部分で否定者であった貴族社会の思考に維盛の思考が同質的だったことをただちに意味するのではありませんでした。その維盛の思考は、前に述べたように、武士倫理としては清盛と同質の側面を持っていて、清盛一族の最上層の思考の一面を代表していると考えることができますが、この事例からその実態にこれ以上迫ることはできません。

8 むすび
 治承四年、頼朝の蜂起に遭って朝廷が派遣した追討軍に内包されていた戦術上の対立から、それを生んだ思考方法のうちに、追討軍の母胎である貴族社会の思考方法を否定する新しい思考方法がはらまれていたことを見出すことができます。主体的に選択され普遍的に意味づけされた目的を果すために、既存の情況にそのまま従うことを拒みながら、すべてのひとに理解可能であるように言語化できる手続きで、理性的にまた論理的に、現実にはたらきかけてゆこうとするもので、まず指導的な実戦指揮者である侍大将忠清にあらわれ、ついでその主張が述べられるのを聞いた追討軍の将士の多数によって支持されます。思考方法としては、兼実や頼朝や、さらには後に泰時やが貴族社会の伝統的思考に対置して示す傾向としてすでに知られているものと同質のものであり、それは中世的思考として全社会を規定することになるものとその核心を共有すると考えられるものですが、それがこれまでに考えられたことのない、貴族社会によって編成派遣された軍団の戦闘行動のなかに、実際に戦闘に参加する武士の思考として、しかも個人のものであるとともに集団のものでもあるものとして、見出されています。このことは、この時期に社会を覆う規模で起りつつあった思考方法の転回を考えるうえに、新しい重要な知見を加えるものです。
 新しい思考の担い手のうち、忠清とその周囲にいた将士は紛れもなく戦闘者ですし、頼朝も泰時も本来はやはり戦闘者ですから、それはおそらく、新しい思考方法の生れ出る場の性格には、戦闘行動の場の持つ性格に対する強い親近性がなければならないことを示唆するでしょう。試みにそのような場の全体に共通する属性で戦闘行動の場の特性から生れるものを挙げようとしてみると、すぐにつぎのような点が思い浮びます。
(1)判断には、その結果が自身の生死を分けるような重大な影響を持つ場合が多いこと。
(2)したがってその判断には、いわば「生命を賭する」ような真剣さが要求されること。
(3)そこでは、情況が刻々に変化し、それを把握するための情報蒐集が欠かせないこと。
(4)そのようにして得られた現在までの情況についての知識から、その情況の将来での推移を予見することが必要ですが、そこでの推論自体には条件の特定の組み合わせを仮定すれば物理法則的な確定性のある規則の厳密な適用が可能であり必要でもありますから、実践に先立つ方針の構想に論理的思考力が駆使されるのは当然で、その能力が錬磨されもするだろうこと。
(5)しかし、相手の出方は完全には予測できませんから、個々の判断の結果の予想も不確実さを免れず、相手の出方一つごとに判断を繰り返すことも避けがたいでしょう。そこから非合理的・超越的な要素が判断に加わることが生じるでしょうし、そこにはまた高度な修練によって身につく言語化しにくい内面的な一元的行動原理が生れはたらくことにもなると考えられること。
 しかしながら、同じ思考の担い手の中に戦闘とは無縁な兼実がいることは、そこに戦闘行動の場以外の場も同時に含まれていなければならぬことを語るものです。それを可能にするものとして、つぎのようなことが考えられるでしょう。
(6)転換期特有の社会秩序の流動化によって、日常生活にも戦闘に匹敵する緊迫した場面が多く見られるようになり、一般人の生活意識でも戦闘者的な要素が比率を高めていて、その結果武士以外にも上記(1)から(5)までの属性を備える生活領域を持つ階層が生れたこと。
(7)社会全体の日常生活と知的活動の水準が上昇し、思考力で生活行動を統制しその経験を他者に伝達できる階層と人間類型の範囲が拡大したこと。
 そのような思考が成立する場として適するのは、具体的に歴史事実に即して考えた場合、どのような階層のどのような領域の中であり、またどのような人間類型の中であったのか、臆測で述べるのであれば即座にかなりのことが言えますが、それを学問的な論証性を失わずに詳論すること、これが残された、しかし果すことのたやすくない課題です。


1 拙著『日記の思考──日本中世思考史への序章──』(平凡社、一九九五年)第六章(初出一九七七年)末・拙稿「北條泰時の「道理」」(「政治手法の西と東 五──なかじきり──」、『愛国学園大学人間文化研究紀要』八号、二〇〇六年。『思考史のために』http:// histhinkron.at.webry.info/に再録)参照。
2 この点を問題にした先行研究は、管見の限りありません。
3 有朋堂文庫本(有朋堂書店。一九二九年)によります。近年活字化される平家物語では、流布本に近い系統の本文を採用する場合でも、その祖形である覚一本への遡源を目指して本来の流布本から遠ざかる傾向がありますので、ここでは「平家物語流布本」と記述したこととの整合をはかって、万治板本に基づいた同本を用いました。現行の覚一本系の活字本では表現にかなりの違いがありますが、ここでの論旨はそこでもそのまま成り立ちます。
4 藤原忠清については、平維盛の属する小松家との主従関係の存在が指摘されています(最近のものとしては、川合康「治承・寿永の内乱と伊勢・伊賀平氏」『鎌倉幕府成立史の研究』校倉書房、二〇〇四年、三七八〜三九二ページ)が、そのことは本稿の述べる維盛との思考方法上の対立の想定を妨げるものではありません。
5 吉記十一月二日条にも「其後謀反之輩……送牒状。其状詳不聞。糺問件子細之後令切首。[殺害之条有不甘心。]」(史料大成本。下同)という伝聞が記されています。
6 富士川現地での追討軍の動静については、このことと、山槐記・吉記が何れも不詳とする、対峙していた甲斐源氏軍から軍使がもたらした書状の内容を文面に即して記述していることとから、玉葉の記述の信憑性が最も高いと考えられます。
7 平家物語流布本の記述が山槐記の伝える伝聞と大筋で合致し、吾妻鏡の記述も水鳥の羽音を撤退の直接原因とはしないもののその描写では符合していることによって、追討使撤退の実情もこれに近いものだっただろうと考えられがちですが、これはこの三者が同一系統上の伝聞に依拠したことを意味するに過ぎないでしょう。玉葉・吉記がこれと異なるそれぞれ独自の撤退過程を描き、吾妻鏡も撤退自体の叙述では玉葉に近づいていることによってその伝聞は相対化されますし、とくに玉葉の記述には前注の評価が成り立つことを考えると、実相はむしろ劇的なところのない玉葉の所伝に近いものだっただろうと見ることができます。
8 そもそも、軍事行動は本来的に結果だけがすべてだという性格を色濃く持っていて、合理性が優先される度合いが高く、時代を超えて一般的にその点で他の多くの社会行動と区別されますから、ここでもそれがまず根底にあると考えてよいことも見逃せないでしょう。平安中期の奄美島人の襲撃や忠常の乱などの事変に際して示された貴族の対応にすでに明白にあらわれています。
左大臣以下着陣座。右大臣云、今日朔日、奏凶事無便宜歟者。余云、飛駅言上是至急事〔大カ〕事也。不可隔時者。何矧選吉日乎。諸卿応之。(小右記長徳三年十月一日条。大日本古記録本。下同)
抑首途日、可避有指忌之日許。強不可択優吉日。件事、只差遣検非違使所被追捕也。異給節刀之使。至尋常遠近追捕、不撰善悪日、奉宣旨馳向之例也。事可同彼意。然而程在遼遠。仍猶可撰吉日也。此由等具相含了。若求優吉日、旬月相移、賊従〔徒〕廻謀歟。(追討使平直方)甘心退去。夜中可申関白者。 (小右記長元元年七月十五日条)
9 「是則東国勢自江州皆悉可付之由、兼支度之処、敢不付。或其身雖参、伴類眷属猶不伴。或随形勢随逆徒等。」(吉記治承四年十一月二日条)
10 この時期の歴史を大観する者にはごく自然に了解できることですが、そればかりでなく、個々の客観的に見ることのできる事例での頼朝の考え方のなかに具体的に捉えることのできるものでもあることを示すことができます。拙稿「政治手法の西と東 一・二──源頼朝「天下之草創」の書状精読 上・下──」(上掲紀要四・五号、二〇〇二・二〇〇三年。上掲『思考史のために』に再録)・上掲「政治手法の西と東 五」参照。
11 対立する二つの思考方法の概括的叙述としては、拙稿「転換期の貴族意識」(『岩波講座日本通史』7巻中世1、岩波書店、一九九三年)二七四〜二七五ページ・二九二〜二九三ページ、上掲拙著二一二〜二一三ページ・三〇二〜三〇三ページ参照。
12 上掲拙稿「政治手法の西と東 一・二」・拙稿「源頼朝「大天狗」書状小考」(『日本歴史』六九一号、二〇〇五年)参照。
13 注11に同じ。
14 文治二年四月三十日付議奏公卿宛頼朝書状。上掲拙稿「政治手法の西と東 二」八章一〇ページ・十章冒頭一六ページ、拙稿「政治手法の西と東 四──源頼朝の「天下之草創」と藤原兼実 玉葉文治元年十二月二十七日条精読 下──」(上掲紀要七号、二〇〇五年。上掲『思考史のために』に再録)九章一六ページ参照。
15 上文六〜七ページ参照。日記上の戦闘関連の記述はそのほとんどが伝聞の紹介で、この玉葉の記事も例外ではありません。しかし伝聞を記録する場合も、口頭発言や文章などの言語表現をそのまま伝えるものは別として、一般には、表現する語彙などは、記録者の自由な選択にゆだねられていたと考えられますから、「立次第之理」の「理」も兼実の用語法にしたがって用いられていると考えることができます。
16 上掲拙稿「転換期の貴族意識」・上掲拙著第四章・拙稿「政治手法の西と東 三──源頼朝「天下之草創」と藤原兼実 玉葉文治元年十二月二十七日条精読 上──」(上掲紀要六号、二〇〇四年。上掲『思考史のために』に再録)・上掲拙稿「政治手法の西と東 四」参照。
17 上文3章三〜四ページおよびそこに付した注5参照。
18 上掲拙稿「政治手法の西と東 四」九章後半一五〜一六ページ参照。そこでは、兼実の、周囲に対して独自であり、頼朝と共有できた思考の特質を、「論理的精密性」・「理性的な明晰さ」に求め、さらにそこに「かれが思考するに当って常に誰もがその理性によって納得できるような客観的な妥当性を求めようとしている、意図的な態度」・「他者の理解の可能性に対する徹底した配慮が示されている」「その話の進め方」を見ています。

                                                 (龍福義友)

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          富士川合戦での戦術的思考の対立             ──平維盛と藤原忠清──                 (未定稿 上) 【本稿に手を入れて現時点での定稿とし、「戦闘行動の論理と中世的思考──富士川合戦での戦術対立から──」http://ronfoo.at.webry.info/200612/article_2.htmlと改題して別項として掲出しました。今後はそちらを御覧ください。】 1  学生でも専門家でも、まだ若く、学問の世界にそれが未知の荒野であ... ...続きを見る
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