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help リーダーに追加 RSS 吾妻鏡の虚構一考──文治二年三・四・五月の公武交渉を素材として──(未定稿 下)

<<   作成日時 : 2007/06/05 01:50   >>

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【承前。「吾妻鏡の虚構一考──文治二年三・四・五月の公武交渉を素材として──(未定稿 上)」http://ronfoo.at.webry.info/200704/article_2.html参照。】
四 文治二年四月一日条
【この章は、論旨は変えずに大幅に補訂して論述を整備しました。主要な補訂箇所は緑字で示してあります。2007年12月1日】
 四月二十日条にあらわれる吾妻鏡編者の虚構は、編者自身には事実との違いが明瞭には意識されていなかったと思われます。しかし吾妻鏡には「曲筆」として指摘されてきた、事実に反することを編者が承知の上で作りなした、それとは別種の虚構があることも疑いありません。特定の人物あるいは集団をその実体以上に価値づけようとするもので、すでに触れたように、北条氏一族と大江広元・三善康信とに対するものが知られています。虚構のこの側面をうかがわせる事例をいま対象としている時期で見てみましょう。
 その種の事例でもっとも目につくのは北条氏にかかわるものですが、それに該当するのではないかと疑われるものが、原資料そのままであるかのように見える吾妻鏡の引用資料のうちに見出されます。四月一日付北条時政書状です。地の文とともに掲げます。

北条四郎主出京之後、今日着尾張国萱津宿。而関東御使来会于此所、帯去月十六日御書。仍相副状、被送進帥中納言殿許云々。
畏申上候。今月一日、萱津宿到着之処、二位殿御文一封候。仍進覧如件。
抑大蔵卿殿、刑部卿殿、并北面人々事者、可処霜刑之族不思知者也。後毒之眷也。然者就顕就冥、深依恐叡慮、令申其旨許也。此条ハ自君之御心不発候事にて候ヘハ、於今者只可為君御意之由、所被仰下候也者。且以此由可令申上給候。時政恐惶謹言。
   四月一日                    平[判] 
進上 大夫属殿
(文治二年四月一日条)

 地の文では、離京して帰東する途上尾張国萱津宿で頼朝の三月十六日付院奏を携えた使者に出会った時政が、その頼朝院奏への添状として経房に届けるために作成したとされていて、書状本文とも齟齬はありませんが、いくつか問題があります。この添状を書くためには、時政に(一)それをする正当性または必然性がなければならず、(二)それをすることを可能にする条件が備わっていなければなりませんし、また、書かれた添状には、(三)信じることができる関連資料との整合性が確保されていなければなりませんが、ここではそのいずれについても疑問が生れるのです。まず、(三)の関連資料との整合性から考えます。
 吾妻鏡にはこの添状が本書とするとすればそれ以外ではありえない頼朝の院奏がたしかに収められていますから、それこそが最重要な関連資料です。その院奏を地の文とともに掲げましょう。

山城介久兼為使節上洛。被仰伊勢国神領顛倒奉行等事。又諸国兵粮米催事、漸可被止之由、被仰北条殿。是及狼藉之間、預所有訴之故也。依之可被奏達此趣之旨、被申帥中納言許云々。
㋐諸国并庄園事。為令制止狼藉候、成遣下文候、所触廻候也。武士之中抽群不当輩候者、早可令召下候也。㋑可被処刑輩事。@鬱存候子細者、先度次第令申候畢。其許否者、所詮可随御計候。不起自御意、近習者御勘気可有由者、其恐候之故不能鬱申候。A但君者雖為不知食候事、已称御定、令下宣旨候之条、無謂所行候歟。以此旨可令披露給候。恐々謹言。
 三月十六日                  頼朝 
進上 帥中納言殿
(文治二年三月十六日条。ここは吉川本に従います)

 一見して時政添状との照応は明らかです。まず頼朝院奏の日付三月十六日は時政添状の本書が地の文で「去月十六日御書」とされているのと合いますし、時政添状が本書の内容とする泰経ら赦免の問題は頼朝院奏の後段「刑に処せらるべき輩のこと」以下に述べられていることと対応します。仮に地の文の「去月十六日御書」を疑っても、同じ問題についての院奏をこのとき時政が出会った使者が携行することのできる時間的範囲内にこれと重複して頼朝が書くことは不合理ですから、時政が添状を付したとすればそれはこの三月十六日付頼朝院奏でなければならないのであり、この推論は動かすことができません。
 ところが、それにしたがって時政添状の本書としてこの頼朝院奏を認めようとするとそこには処理しがたい困難が立ち現れます。両者の間には上述の照応とともに重大な内容の齟齬があるのです。頼朝院奏は㋐「諸国并に庄園の事」(これは「狼藉を制止せしめ候はんがため、下文を成し遣はし候ひ、触れ廻らし候ふ所也。武士の中群に抽んでて不当の輩候はば、早く召し下さしむべく候ふ也」と続きます)と㋑「刑に処せらるべき輩の事」とに区分され、後者はさらに@主文「鬱し存じ候ふ子細は、先度次第を申さしめ候ひ畢んぬ。その許否は、所詮御計に随ふべく候。御意より起らず、近習の者御勘気あるべきの由は、その恐れ候ふの故鬱し申す能はず候」とA但し書き「但し君は知ろし食さず候ふ事たりと雖も、すでに御定(御諚)と称して、宣旨を下さしめ候ふの条、謂なき所行に候ふ歟」
に区分されるのに対して、時政添状が触れるのはそのうちの㋑-@だけであり、㋐と㋑-Aとをまったく無視していますし、㋑-@に関してもその内容はほぼ一致しますが表現は著しく異なり、また㋑の全体から但し書きAを省いた結果頼朝の意思をかれが㋑で述べようとした真意とは異なるものとして伝えるものとなってもいて、両者は整合せず、(三)の要請は充たされません。時政添状が頼朝院奏の趣旨の解説を意図したものであることはその内容から明白ですから、そこにこのような事実が見られるとすれば実態が意図を完全に裏切っていることになり、このような事態がなぜ生じたかが問題です。ここに上掲(二)についての疑問に答える必要が出てきます。果して時政はこのような添状を書くことができる条件を持っていたのでしょうか。
 時政がこの添状を書くことができるためにはこの時の頼朝院奏の内容を知らなければなりません。そのためには、頼朝書状をみずから見るか、頼朝の、その内容を時政に報じて添状の添付を命じる指令を受け取るか、どちらかがなされる必要があるでしょう。前者であれば、頼朝書状、それも院奏のためのものを、送達の途中で開封し内容を見なければなりませんが、そのようなことを時政がすることはありえません。後者であれば、そう指令すること自体が時政の添状作成に劣らず重要な頼朝の政治的行為であり、添状自身がそれに触れなければなりませんし、時政添状の成立を編者に知らせた資料にそのことが漏れることも、それを知った編者が地の文でそれに触れないことも、ともに考えられません。前者は書状取り扱いの慣行から、後者は吾妻鏡の記述内容から、ふたつながら事実としての存在を認めることができないのです。また敢てどちらかが存在しえたものとしても、そこにさきの不整合が生れるためにはそれを可能にする判断が頼朝・時政のいずれかによって下されなければなりませんが、頼朝がそれをして㋐を無視し㋑を歪曲することはありえませんし、時政もまた自己の京都での職務の核心でありしたがってことばを添える意欲も大きいはずの㋐を省くとは考えられません。さきの不整合がある以上、添状が吾妻鏡所掲三月十六日付頼朝院奏を本書とするものと解することはできないのです。こうしてどのように考えても時政にはこの添状を書くことができる条件はなかったことになります。この時政添状が時政の執筆になるものではないことは否定することができません。
 また、いま仮にこの(二)・(三)にかかわる推論を度外視するとしても、さらに根源的な(一)の問題があります。そもそもこの院奏に限らず頼朝の朝廷との交渉に時政が添状を付するような形で介入する、その理由がないのです。頼朝に対する朝廷側の窓口である藤原経房や同定長と頼朝との関係はきわめて密接で、他者の介添えを容れる余地はありませんし、時政の京都での立場は頼朝の身分の低い代官でしかなく個人としての朝廷への発言力は頼朝に比肩すべくもありませんから、頼朝の院奏に時政が添状を付しても何の効果も期待できないのです。それを頼朝や時政が知らぬはずはありませんから、さきに(二)に関連して想定した頼朝の時政への指令は、はじめから存在の可能性がなかったのですし、時政が頼朝の指令なしに添状を付そうと考えることもありえません。このとき問題にされていた泰経らの配流赦免に対しては時政のかかわりはとりわけ薄く(補注)、どのような情況を考えても、そこに時政の関与を可能にするものは見出せません。
 なお、これらの考察は吾妻鏡所収三月十六日付頼朝院奏の信憑性が認められるものであることを前提としていますが、その前提が確認を要するものであることは当然です。ここで注目されるのがこの頼朝院奏に対する編者の理解です。この院奏
は大神宮領を含む諸国・庄園での武士の狼藉を停止する措置だけを述べたものとして編者に捉えられています(注1)。さきに㋑とした部分も、それに関連することがらとして、その本来の内容が泰経赦免についての意思表明であることに気づかれることなく、そこに含められたのです。編者の理解するかぎりではこの院奏は泰経への言及を含まないことになり、添状がこれを本書とすることも編者の主観では起りようがないのです。これが編者の誤解であって院奏の客観的に読み取れる内容がそうではないことに異論の余地はありませんから、この院奏が偽作されたものであるとしても、編者がその制作者であることはないことになります。他方、偽文書の制作は制作者に何らかの利益をもたらす見込みなしにおこなわれることはありませんから、この頼朝院奏について吾妻鏡編者以外を想定することはできません。この院奏が偽作である可能性は失われ、信憑性が確保されたことになります。
 錯誤に基づく編者のこの独特の理解がもたらすものはこれにとどまりません。添状が吾妻鏡所掲の頼朝院奏以外に本書を求める事態がこの理解によってはじめて生れるのです。添状が吾妻鏡に掲載されている以上、その理解にもかかわらず編者は泰経赦免についての十六日付頼朝院奏の存在を知っていたことになりますから、他に、編者にその院奏の存在した事実だけを告げ、みずからの誤解に気づかせるに足る実在の院奏の内容についての具体的な情報は与えない、そのような資料が存在したことは間違いありません。編者はその資料によって、眼前の同日付頼朝院奏とは別に泰経赦免についてのそれがあると信じたのです。その結果当然に、編者にはその院奏を構成し叙述しようとする欲求が生じ、そこに編者に恒常的に存在したであろう時政顕彰の機会を捉えようとする意欲がはたらくことによって、頼朝院奏そのものではなくそれを本書とする時政による添状が編者によってごく自然に虚構されることになります。吾妻鏡所掲の頼朝院奏とは別物として編者の脳裏に構成された院奏像に合せて添状が創作されるのであり、そこでは不整合の問題は起りません。この添状の生れる現実の過程としてこれ以上ふさわしいものはないでしょう。さきにその制作で時政との関連を断たれた時政添状は、ここでその制作者として編者を浮上させたのです。この添状、すなわち吾妻鏡文治二年四月一日条所掲時政書状が、書中の史実の欠落を補完しまた特定個人の顕彰を果したいと願う同書編者の意志によって虚構されたものであることはもはや疑うことができないと考えます。

 ここにあるのは、時政という一個人の、この虚構によってはじめて提出されるある史実への関与です。それによって時政が頼朝・後白河間にわだかまっていた懸案の一つの解決に寄与した架空の功績が生み出される(注2)のであり、古くから指摘されている北条氏顕彰の意図による歴史の歪曲がなされたことになります。それがここで、原資料を引用する形で書中に掲げられる文書の偽作としてあらわれていることが確認されたことは、そのような事実がこれまで知られていなかっただけに重要で、吾妻鏡という史書の性格の認識にこれまでに知られていない新しい一面を加えることにもなりました。
 ただしこれだけでは、この時政添状がなぜこのように虚構されたかの説明として十分ではありません。編者に泰経赦免についての三月十六日付頼朝院奏の存在を示唆した資料はその内容については実質的な記述を含まなかったと考えなければなりませんから、編者は院奏内容を構成する知見をどこから得たのかが問題です。創作された時政書状にあらわれる頼朝の見解で顕著なのは、赦免を問題にする対象を「大蔵卿殿、刑部卿殿、并びに北面の人々」と具体的に限定し、「今においては只君の御意たるべし」とおのれの意思が赦免容認にあることを積極的に表明していることです。泰経関連のものとして実在しながら編者に看過された十六日付頼朝院奏が、対象について「刑に処せらるべき輩」と間接的で曖昧な述べ方をし、その処置については「その許否は、所詮御計ひに随ふべく候」と赦免の勅諚があれば最終的にはそれに従うと承認を消極的なものにとどめ、しかもそのあとにそれに釈然としない真情の吐露を付加するのと明瞭な対比を見せていますが、他方、それと段階を異にする「二位卿書状」の見解を反映する四月二十六日付院宣(文治二年五月九日条所引)(注3) が、対象を「泰経・頼経等」・「北面輩」と個別的に明示し、処置はそれぞれについて「恩免あるべきの由、……御不審を散じ候ひ畢んぬ」とし「おのおの誡め仰せて召仕ふべ」しとしているのとはよく調和します。この院宣が三月十六日の頼朝院奏に答えたものであることは事実としてはありえないのですが、編者はこの院宣を誤読して三月の頼朝院奏に対する回答だとしていますので、編者がそこに三月十六日付頼朝院奏への後白河の対応を見ることに不思議はありません。編者が時政添状を創作するに当って四月二十六日付院宣の言う「二位卿書状」の趣旨を再現する作業としてそれをおこなったことは確実だと考えます。
 時政添状の虚構が、実は四月二十六日付院宣で「二位卿書状」として存在を明示されながら、その具体像については吾妻鏡に言及のない頼朝院奏
の内容の提示でもあった(注4)ことがあきらかになりました。時政添状によって編者は一方で時政の顕彰を果しながら同時に他方で実在していながら編者にはその存在を見過されたひとつの頼朝院奏にそれに代る架空の存在を与える作業をともにおこなったのであり、編者の主観では欠落した因果連関がそこで補完されたのです。そこでは、不注意による単純な錯誤のように見える吾妻鏡の地の文と引用資料との内容の齟齬が、あるいは虚構形成を要請する条件を与え、またあるいは虚構を構成する資材を提供するなど、その虚構を成立させるために有機的に関連してはたらいている事実が見出され、疎漏非力の露呈と見えることの多い編者の歴史叙述の一面に思いがけぬ複雑な相互連関があることをも垣間見させるものとなっています。ここでの場合、三月十六日条のおそらく不用意な読みの結果に過ぎないであろう頼朝院奏の泰経問題への関連の看過が、正確に読んでいれば不可能であるはずのもう一通の頼朝院奏の存在推定とそれを前提とする時政添状の創作へと編者を向わせたのであり、その誤解に基づく意欲が五月九日条で院宣の誤読を生ませてそこにあらわれる頼朝院奏をそのもう一通の頼朝院奏と等置させ、その院奏の成果で時政顕彰に実質を与えようとする四月一日条を成立させたのです。そこでは錯誤が錯誤を呼び、相互に力を与え合っています。また、五月九日条の院宣の誤読には単なる不注意の結果だとは言い切れない、無理を承知の意図された強引さがありますが、それには欠如した因果連関を復原しようとする類型の虚構と、ある人物を顕彰しようとするそれとは異なる類型の虚構と、この二つの虚構へと向う動機が同時に重層してはたらいていたことによるところが大きいと思われます。錯誤にせよ虚構にせよそれを生む根底には事実に即こうとする意志の希薄があるのであり、そうであるかぎりはそれは頻出し、相互に連関することも多くなります。時政添状の創作は、その、錯誤や虚構の連関し複合した場合の反事実に向う力の大きさをよく語るものです。

むすび
 鎌倉幕府草創期についての吾妻鏡の叙述には顕著な特徴があります。錯誤または虚構の結果としてあらわれる、事実に反する記述のおびただしさで、そこに事実に即こうとするのではない歴史叙述への編者の志向を認めないわけにはゆきません。事実に基づくことを必須とする歴史とは、構築を構想されている世界がまったく異っているのであり、そこにあるのはつぎの二つの意図です。第一。資料によって事実であることを確認できる史実の空隙を臆測と類推とで埋めて欠落した因果連関を補完し、かつそれがあたかも資料に拠ったものであるかのごとく記述して整った現実像を安定した形で読者に与えようとする意図。第二。特定の人物あるいは集団を美化し顕彰する虚偽の記述をおこなって、その人物なり集団なりの価値をその実体以上に読者に印象づけようとする意図。これらの意図は典型的には虚構の場にあらわれますが、錯誤ともあるいはそれに支援され、あるいはそれを誘発するなどの形で関連してはたらく場合があり、そしてこの錯誤と第一・第二それぞれの意図に基づく二類型の虚構とがある組み合わせで複合して叙述と結びつく場合があって、そのような場合には編者の反事実に向おうとする志向はいちじるしく強められます。吾妻鏡が文書を原形を伝える形で引用する場合には地の文の叙述の場合と異ってそこに虚構がはたらくことはきわめてまれですが、そのまれな例の一つをその複合が生み出していることも確かめられています。


1 石母田正「文治二年の兵粮米停止について」(注5所掲『石母田正著作集』九所収、初出一九五七年)二三五〜二三七・三〇二ページ参照。この頼朝書状を引く吾妻鏡三月十六日条は、いわゆる兵粮米停止にかかわる基本史料の一つとして知られていて、同論文で石母田氏の厳格な本文批判の対象となったものですが、興味深いのは、石母田氏もまた頼朝書状のさきに㋑とした部分を「刑罰を加える仕方について、院および院の近臣等に抗議している言葉である」として、㋐の関連事項だと理解していることです。吾妻鏡地の文の信頼性にとりわけ厳しい態度を取った石母田氏にさえ受け容れられたことは、吾妻鏡編者の誤読にも無理からぬところがあったことを示しているのかもしれません。しかし、時政の離京を考慮しないなど、編者の不用意には、理解の限度を超えるものがあります。
2 それだけでなく、その結果が、頼朝との関係でも朝廷との関係でも時政の存在を大きくし、その政治的立場を強化して読者に印象づける効果を持つことももちろんのことです。
3 本稿上第一章末部およびそこに付した本稿上注2所掲拙稿五ページ参照。
4 これは今日では編者に知られていなかった資料「文治二年五月の兼実宛頼朝折紙」によってかなりの程度まであきらかになりました。本稿上注2所掲拙稿三ページ参照。なお、時政添状と対照できる資料としては他に三月二十九日条所引同日付広元書状がありますが、同じ拙稿で触れました。また、地の文ながら照応する内容を持つ四月二日条は、四月二十六日付院宣での頼朝見解の復原として、時政添状と意図で重複しています。
(補注)泰経問題への時政のかかわりとしては、玉葉文治元年十二月八日条でかれが泰経の所領の注進を頼朝から命ぜられていることが知られるのが唯一のものでしょう。

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