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文治二年四月十九日付源頼朝書状の解釈(未定稿) 1 本論(注1)で折紙第8項と関連させて、つぎの源頼朝書状を取り上げました(第三章)。そこで原文を引用しましたので、ここでは訓み下して掲げます。 追って言上す。 前の摂政家申さしめ給ひて云く。代々相伝の地に於ては、全く長者分に混ぜず、或いは年貢を割きて神用を経、或いは宿願に依りて仏事に充て、所々相交へて私領を以て始めて祈祷を置く。定まりたる習ひ歟。本主の進止と為(し)て、更に長者の沙汰に及ばず。前々の長者、家領各別の時、分別し置かるる□□〔家領カ〕、理非を論ぜず押領す。若し彼例を追はば、左右(とかう)する能はずと云々。院宣に云く。家領に於ては異議無き事歟。此旨を存ぜしむべしと云々。 件の請文、即ち此の脚力を以て帥卿の許に進めしめ候ふ所也。御不審の為案文を副へ献ぜしめ候ふ所也。此の申状若し御甘心候はざらば、請文を付さず持ち帰るべきの由、脚力に下知せしめ給ふべく候。又然るべき申し状に候はば、早く帥卿に付され、宜しく相計ふべく仰せ含めしめ御(たま)ふべく候。子細内々申さしめ候ふ所也。 前の摂政家申さしめ給ふ庄々の事、彼の家領為るべきの旨存知せしむべきの由、院帥卿奉行と為て仰せ下さるる所也。而るに偏に惣領せしめ給ふの儀何様に候べし哉。高陽院・冷泉院宮・堀川中宮已上三箇所の御領に至りては、彼の御家領為るべきの由申さしむべく候ふ歟。仍て案内を申さしめ候ふ所也。恐々謹言。 四月十九日 頼朝(花押) 謹上 頭左中弁殿 (主文は松浦厚氏旧蔵文書(『鎌倉遺文』八六の底本)、追って書きは保阪潤治氏旧蔵文書をそれぞれ底本とし、宮内庁書陵部所蔵『九条家文書』二〇一の内(刊本『九条家文書』五、一四九四(1)、また『鎌倉遺文』補一七の底本)でその破損箇所を補いました) この書状が文治二年に、藤原兼実に宛てて書かれたものであることにはいくつもの徴証がありますが、同年五月三日にあきらかにこれと同一であることが知られる書状を兼実が受け取っている(注2)事実を指摘すれば足ります。書状の趣旨は、本論で──基通が摂政として領有してきた所領の全体をそのまま家領として今後も維持することを認めた後白河の処置に「しかるに偏に惣領せしめ給ふの儀何様に候べしや」と異議を唱え、それに代わるものとして提案しようとするおのれの考える基通領の限定された範囲について、「彼の御家領たるべきの由申さしめ候べきか」と述べて提案実行の可否を兼実に問いかけている──と述べましたが、読みとしてもっとも自然で、動かないところでしょう。 ただ、形式的に解釈の可能性を挙げようとすると、「偏に惣領せしめ給ふ」主格には、後白河法皇・藤原基通・兼実の三者が何れも当る可能性を持つとしなければならず、前二者ならば頼朝が直面した事態は同一となって本論の論旨はそのまま成り立ちますが、第三の兼実を当てた場合にはそうはならず、とくに頼朝・兼実のこの問題への関与の様態に本論でとは異る想定をしなければならなくなります。ここでは本論で省略したその点の吟味を補って、本論の主張の当否をあらためて考えてみます。 2 まずもっとも問題となる兼実を当てた場合の可能性について見ることにします。本論では、この書状が摂関家領継承の具体案を提示する初度の院奏に先立って兼実の意向をはじめて確認しようとする頼朝の意図を示すものである点で折紙第8項と同じであるとし、折紙ではそれが返書となる書状「目録口状」で一三箇条の一条として兼実が述べた見解に(A)「尤も御沙汰有るべく候」と賛意を示しつつそれへの応答としてその意図を述べているのに、書状では同じ意図を述べながら兼実の見解への言及がない、と解したのでしたが、ここでは書状の(B)「而るに偏に惣領せしめ給ふの儀何様に候べし哉」の一文がそっくり兼実の見解への言及であると見做されます。そうしますと、その場合にも書状の意図するところが折紙第8項と同一である情況は変りませんから、両者執筆の間にどちらか一方への兼実の回答が届いているとは考えることができず(届いていればその後の執筆では回答されたはじめての問いがそのまま繰り返されることはなく、意図の同一性は失われます)、その両者で頼朝が応答しようとしている兼実の見解もまた同一となって、「目録口状」での見解がそれであり、(B)によってそれは「偏に惣領」することを主張したものであることになります。この帰結は、「偏に惣領せしめ給ふ」の主格を兼実とするかぎり避けられないものですが、そこからはいくつもの問題が発生します。そのうちのふたつを見ておきましょう。 一つは、何を「惣領」しようとしているかです。上の兼実宛頼朝書状の文脈では「前の摂政家申さしめ給ふ庄々」となりますが、それは前摂政藤原基通によって「代々相伝の地に於ては、全く長者分に混ぜず」、「本主の進止と為て、更に長者の沙汰に及ばず」と主張され、後白河が「家領に於ては異議無き事歟。此旨を存ぜしむべし」として継承を裁可したものであり、頼朝がこのとき兼実宛書状でも院奏(本論所引)でも兼実・基通間で分割することを提案している基通の現有所領(これ以前に氏院・寺・社領等若干は確立された藤氏長者領として兼実に引き渡されていたと考えられます)の全体を指すものです。若しそれを「惣領」することが兼実によって述べられたのだとすれば、兼実はそこできわめて強い権利の主張を積極的に展開したことになりますが、それは権力志向の表明に抑制的で(注3)かつ露骨な私益追求を嫌う(注4)兼実の一般的な政治姿勢にそぐわず、とりわけこの時の摂政就任問題で見せた態度とは調和しがたいでしょう。 もう一つは、ひとつの兼実見解への応答が二度にわたってなされ、その間に顕著な差異が見られるのはなぜかです。そこでは、兼実見解に対置しようとする提案内容とそれへの兼実の賛否を問おうとする姿勢とでは一致しながら、兼実見解への頼朝の心的態度では、折紙と書状とでのその端的な表現である(A)と(B)とが示すようにあきらかに違いがあり、前者では尊重が基調であるのに、後者で批判が先立っています。一人格の同時期の同一対象に対する心情のありかたとしては矛盾だと言わなければなりません。二度に分けられたことは、折紙での言及が必須であるのに、簡潔に結論だけを述べる形でほぼ統一されている折紙上ではこの問題について意を尽せなかったのだと考えればひとまず了解できますが、心情での矛盾の方は解消が難しく、矛盾を生む(B)の解釈に無理があるとするほかないようです。 すくなくともこの二点が解決困難な問題としてある以上、これらを生む前提、「偏に惣領せしめ給ふ」の主格を兼実とする理解は、その成立の可能性を認めることができません。 3 残るのは「偏に惣領せしめ給ふ」の主格に後白河・基通のいずれかを当てた場合です。本論での解釈は、これを「後白河の処置」ととっているのですから、そのうちの後白河を主格に当てたものに相当し、書状の文脈の捉え方としては最も自然だと言ってよいものでもあり、その成立する確実度は本稿のここまでの考察でいよいよ高くなったことになります。これに対して基通を主格に当てる解釈は、書状の趣旨の全体的理解では後白河を当てたものと異りませんから、本論の論旨とも抵触はしないのですが、ただ書状が後白河への申し入れの内容を問題にしていることを考えると、ここで頼朝が異議をとなえようとする対象が基通の行為に限定されることは整合的ではなく、成立しません。 4 頼朝書状の「偏に惣領せしめ給ふ」の主格に、本論では後白河を当てましたが、それ以外の可能性をすべて検討した結果は、何れも成立しないというものでした。本論の解釈が、成立する唯一のものであることが確認され、その論旨の確実性が裏づけられたことになります。 注 1 「「文治二年五月の兼実宛頼朝折紙」管見」(『鎌倉遺文研究』二〇、二〇〇七年)。 2 玉葉文治二年五月三日条のつぎの記述を参照。 一所所領等事、自関東有申院之趣云々。高陽院・冷泉宮・堀川院中宮等領、前摂政可沙汰。其残余可沙汰者。但此趣不甘心者、重可示之由云送。然而於中不可止之故、付東札於帥卿了。為無私也。(宮内庁書陵部所蔵九条本、下同) 3 そのことを示す事例は繁多ですが、このときの摂政就任の過程を含めてこれまで摂関の地位獲得の可能性が生じるごとに兼実が取った態度に最もよくあらわれています。 4 兼実の摂政就任に先立って頼朝のいわゆる廟堂粛清をめぐって事態が紛糾する中、藤原雅賢処遇問題で兼実が藤原経房に下した評価、 親経云、経房卿当時祗候御所、八座可宜之様令申。若叙三品者、可有通資之愁云々。此申状甚奇異也。只当此時為叶御意及資賢之(衍カ)等之心歟。(玉葉文治元年十二月二十九日条) 披見聞書之処、雅賢被任参議。是祖父懇望之上、経房之唇吻云々。太異様事也。経房者当時卿相之中、頗為下人之由、年来存之。依此事頗見其心操了。雖為少事顕心底者也。(同三十日条。文中の「下人」を、図書寮叢刊本は「大人」としますが、底本の字形からは「下人」としか読めず、国書刊行会本の読みが妥当です) は、その姿勢を示す一例です。経房のこの除目での言動に後白河や藤原資賢の意を迎えておのれの立場を有利にしようとする意図を見、そのかれを「下人」だと蔑んでいるのです。 | (龍福 義友) |
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