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畏友宮入正夫氏が拙稿「吾妻鏡の虚構一考──文治二年三・四・五月の公武交渉を素材として──」を読んでこんなことを書いた手紙をくれました。 貴兄はこの論文で、吾妻鏡の反事実性とその因って来るところを明らかにしようとされ、編者の事実に即こうとする意識の希薄さを論難されるわけですが、いったい、中世の認識においては、事実とか真実とかはどんな意味、或いは重みを持っていたものでしょうか。現代的な意味での「歴史に学ぶ」と言う意識といわゆる「鏡」という意識とが同質的なものとすれば、歴史は先ず何よりも事実を土台にすえなければなりませんが、果して両者は同質的なものなのかどうか。 と。そしてまた、 貴兄の論旨とは直接かかわりませんが、吾妻鏡三月十六日条に関して、二三気になることがありましたので書きます。 @ 「諸国兵粮米催事、漸可被止之由、被仰北条殿。是及狼藉之間、預所有訴之故也。」の文中の「漸」の意味するところがもう一つよくわかりません。兵粮米徴収を地頭が強圧的に行うため、預所から不満の訴えがあるので、これを「暫く」止めるよう北条時政に命じた、というのならわかりますが、これが「漸く」ではすわりが悪いように思います。どういうニュアンスなのでしょうか。戦乱も一応おさまって「漸く」兵粮米を徴収する必要がなくなったとでもいうのでしょうか。 A またこの命令は時政が頼朝の意を体して采配を振るっている京で受け取ることこそふさわしいことのように思われますが、この頃は時政が離京する前後でしょう。どうも腑に落ちません。 B 院奏の中の、貴兄が㋑-@とした部分の意味がすっきりわかりません。貴兄の訳、「御意より起らず、近習の者御勘気あるべきの由は、その恐れ候ふの故鬱し申す能はず候」の部分とその前のすでに鬱し申していることとの関係はどうなるのでしょうか。そもそも、「その恐れ」の「その」が何を指示しているのか。泰時の文章でもそうですが、どうも奥歯に物のはさまったような言いまわしが多いですね。 とも。 おそらくこれらの疑問は拙稿の不備な論述が生むべくして生んだもので、同じ疑問は宮入氏以外の多くの読者によっても抱かれたのではないかと思われます。そこで、宮入氏への返事からこれらの疑問にかかわる部分を抜き出してお目にかけることにします。 ──────────────── 「編者の事実に即こうとする意識の希薄さ」の指摘が小稿の眼目であることはおっしゃるとおりで、そこから吾妻鏡編纂での編者の意図を導き出しているのですが、そのような議論の展開が、編者にとって事実とはどのような意味を持つものだったかの問題を素通りさせたことは確かです(吾妻鏡編者には自分の虚構が事実と区別できていなかっただろうことは「四」のはじめに一言していますが)。そこで用いられる事実の語はあくまでも現代語としての事実で、現代の歴史家が通常用いる素朴で常識的な意味を荷っており、編者にとっての事実とはかかわらないからです。 ここで小稿での考察を踏まえて編者にとって事実とは何であったかの問題に一応の見通しを与えるとすれば、それはつぎのようなことになると思います。編者がそれを事実と呼んだかどうかは別として、編者が吾妻鏡で読者に提出しようとしたものが「事実」の連鎖としての歴史であったことは間違いないでしょうから、それが現代のわれわれが考える事実に基づくことを必須とする歴史と異るとすれば、それは編者にとっての「歴史」とわれわれの歴史が異ることを意味するとともに、その構成要素である編者の「事実」とわれわれの事実とが異ることを意味することになるはずです。したがってその「事実」とは、小稿の「むすび」で述べた二つの意図が生み出す反事実、具体的に言えば、史実の空隙を埋める臆測と類推による虚構も、人物・集団を美化・顕彰する虚偽も、ともに含みこむものでなければなりません。そこに成立すると予想されるのは教訓的歴史の色合いを混じた物語的歴史ですが、われわれが吾妻鏡を虚心に読む時に見えてくるのも確かにそのような「歴史」で、それは大鏡などの歴史物語をも越えて平家物語などの軍記物に近づいていると言えそうです。 ただ、そこで問題として残るのは、日本中世の人間が、他方でわれわれの事実・反事実の区別に近いものをも持っていたことが日記や裁判関係の文書などからはっきり読み取れることです。そのいわば実生活上での事実の意識と歴史を書こうとするときのさきの意識とがどのような関係に立つのか、ということになるともうそれは簡単には済まず、独立の問題としてあらためて考えなければならないでしょう。 このようなことも、あるいは「むすび」で述べてもよかったのかもしれません。 なお、小生は吾妻鏡編者の事実なり歴史叙述なりについての意識が現代人のそれとどう違うかを知りたいとは思いますが、そこで知られたものがどのようなものであれ、それを自分の規準で裁こうとは考えません。また、鎌倉時代史研究に占める吾妻鏡の基幹的史料としての地位が、そこで知られたもの如何によって変るとも思いません。吾妻鏡を現代の歴史家が史料として用いる場合に、その内容が史実とどういう関係に立つかについて冷徹な客観的認識を持つことが必要だと思っているだけです。「論難」しているように受け取れたとすればそれは小生の表現力の不足によるものです。 吾妻鏡文治二年三月十六日条についての三点は順を追って考えを述べます。 @ この「ようやく(やうやく)」と訓む「漸」は副詞として多様な意味で使われますが、いずれも時間の経過にともなって物事が起るときにその起り方の程度が時間の経過の大きさに対して何かの意味で低いことを示すようです。ここでは兵粮米の徴収が問題化してからの期間の長さに停止の措置一つの実施を対置していると考えられ、「いよいよここで」「ここに至ってついに」「とうとう」といった気分を表しているのではないかと思います。公家側の抵抗に遭いながら維持してきた兵粮米の徴収だが、それをついにここでやめることにする、ということでしょう。ただし文脈と基本的な語義との兼ね合いの中で適合する語義を選んでいるのですから、これが唯一のものだという保証はなく、小生にはこう思えるというだけです。 A 注17の終りでも触れましたが、これは編者の疎漏を示す典型的な例だと思います。頼朝自身の強い意向で呼び戻そうとしている時政に対して、しかもそれが届くころには時政は京を発っていることがほぼ確かだと思われるのに、頼朝が現実にこんな命を下すはずはありません。それだけでもこの地の文の信憑性のなさはあきらかで、そこから史実を引き出すには慎重でなければならないことを教えています。 B 問題は、㋑-@のはじめ「(刑に処せらるべき輩の事)鬱し存じ候ふ子細は、先度次第を申さしめ候ひ畢んぬ」にあらわれる「鬱し存ずる」ところを「申す」、それをその結び「鬱し申す能はず候」の「鬱し申す」で言い換えてよいかにかかるのでしょうが、この問題は表面的に形式論理で説明すれば比較的簡単なのですが、実質的に納得のゆく解決を求めようとすると意外に複雑で、ちょっと驚いています。 a 玉葉や吾妻鏡での用例によれば、この時代の「鬱」は心に不満や怒りを蓄えている状態を示す場合が多く、「鬱す」はそういう状態でいるあるいはそういう状態になることを指すと解されますし、「鬱し存ず」は「鬱す」の一種の敬語表現だと見られますから、「鬱し存ずる」ところを「申す」とは 「鬱する」ところを「申す」と実体的には同義であり、不満や怒りの内容を表明することを指しています。それに対して「鬱し申す」は、内心の不満や怒りへの対処を要求すること、またはその要求を言外に籠めて不満や怒りを述べることを指して用いられます。両者の間には「鬱」の内容の説明にとどまるものとそれに対する処置の要求を含むものとの違いが明白にある、とひとまずは言うことができます。 これが問題の語句だけに注目した表面的・形式論理的説明です。しかしここでは頼朝発言の論理的脈絡さえ視野に入っていないのであり、おそらく頼朝自身にも納得のゆくものではないでしょう。到底そのまま受け容れられるものではありません。 b 頼朝の言葉は、㋑-@で上引の部分のあと「その許否は、所詮御計に随ふべく候」と続くのですから、実際にはその「鬱し存ずる」ところを「申す」ことは後白河の許否裁定の対象になるような処刑の提案をも含んでいたことになります。そうだとすればそのことの「鬱し申す」こととの区別は、語義の形式的な違いほどには明瞭ではありません。区別しにくいものをことばの上だけで敢て二様に言い分けているようにも見え、歯切れが悪いですが、はじめの「鬱し存ずる」ところを「申し」たものは、後出の「鬱し申す」ことがなされないことによってその実施の可否が「所詮御計に随ふ」ことになるのであり、後者は前者に対して、後白河の裁定を規定する度合いが格段に高いものとして頼朝に用いられていることが読み取れます。同内容の発言であってもその重点が「鬱」の内容にあるか「鬱」への対処にあるかの理解の違いでその語への相手の対応が異なってくるものとされていたのであり、それを発言者がどうであることを望むかによって前者と後者とが使い分けられていたのだと思われます。ですから、この発言でも現実に起ってくるのですが、一つの発言が「鬱し存ずる」ところを「申し」たものか「鬱し申し」たものかの区別は客観的にはつかず、発言者の主観的判断に依存する、発言者以外の者には定めようのないものであることもまれではなかったのです(この書状を含む頼朝の配流免除発言はなかなか朝廷側にその表現通りに受け取られなかったのですが、その理由の一つも、㋑-@のように頼朝が「鬱し存ずる」ところを「申し」たのだという発言を、それにもかかわらず、朝廷側がそれを「鬱し申し」ているのではないと確信することができなかったところにありました)。 c ㋑-@の文面の理解はこれでよいと思いますが、ただこの文面だと問題の人物たちの処分はここから手続きがはじまるように見え、そこに現実の事態との食い違いがあります。 ここで中心になっているのは、高階泰経・藤原頼経の配流免除の問題として知られているもので、小生も前稿(「「文治二年五月の兼実宛頼朝折紙」管見」)で取り扱っていますが、すでにこの両名には頼朝の要求で遠流の刑が確定し(玉葉文治元年十二月三十日条・同二年正月二十二日条。吾妻鏡文治二年正月七日条(参考))ていて、この時問題になっていたのは近臣である両名の刑を免除しようとする後白河の意向に対する頼朝の意思如何だったのです。ですから後白河を両名の処刑に追い込んだ、「鬱し申し」以外の何ものでもない頼朝の発言が、自らそう称したか否かの史料上の徴証はありませんが、すでにあったのであり、頼朝が㋑-@で「鬱し存ずる」ところを「申し」たといっているのはそのかつての発言そのものなのです。同一の発言が発言者頼朝自身によって「鬱し申し」たものから「鬱し存ずる」ところを「申し」たものへと時を隔てて性格規定を変えられているのであり、これで、この二つの規定語の使い分けが発言の内容によってではなく発言者がその時その発言に持たせようとしている機能によって定められ、しかもそのことが発言者の明確な自覚のもとにおこなわれていることが証明されたことになります。 「鬱し申す」ことと「鬱し存ずる」ところを「申す」こととには、語義そのものにも違いがありますが、ここでのその使い分けはそれが指す発言の内容によってではなく、その発言にこのとき頼朝が与えようとしていた政治的機能によってもっぱら定められています。 そのことは文面にあらわれた論理的脈絡によって知られますが、その発言のなされた情況を考慮すると、それが頼朝にはっきりと自覚されつつおこなわれたことまでがあきらかになるのです。 なお、Bの最後に付記された「その恐れ(其恐)」ですが、玉葉や吾妻鏡の用例で見ると、「恐」は場合によって内容は異りますが総じて正当さまたは正常さからそれることへの危懼や恐怖といってよく、「其」でその「恐」の対象になる言動や状態を意味させているようです。この場合で言えば「其」は「御意より起ら」ないにもかかわらず「近習の者御勘気あるべきの由」を上申する(そのように「鬱し申す」)ことを言っていて、それが後白河が本来持っている当然の権限を侵すことを「恐」れているのでしょう。 ──────────────── 以上が宮入氏の指摘に対してその時点でわたくしが考えたことですが、まだまだ不十分で、これでは吾妻鏡編者にとっての「事実」には虚偽・虚構も含まれていたことがわかるだけで、 そのような諸要素を統合した一つのものとしての「事実」がどのように規定されるかにはまったく言及できていません。最後の方に出てくる頼朝の自分の発言の意味を時に応じて変えてそれを自己撞着とは意識しないことなどが同じものの考え方の所産だと見ると、そこにも見通しが開けそうです。これからそんなことも考えてみようと思っています。御批判いただければさいわいです。 | (龍福 義友) |
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